Unhistory Channel 152 - パラドゲー記録

Paradox Interactive, Crusaderkings2, AAR

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 伊勢光喜、山城・三河守護
 バランスのとれた才能

あれはもう何十年も昔のこと。
わが家が扇谷上杉家に伊豆国を攻め取られたとき、わたしは20歳の若武者だった。

わたしはこのように背中が曲がっており馬には乗れなかったので、短弓をとって戦った。しかし我々は負け、伊豆から三河へと落ちのびた。あのとき父氏綱が男泣きしていたのをよく覚えている。
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 光喜の父伊勢氏綱は1540年に伊豆を失っている
 
三河での食客生活は肩身の狭いものだった。
家も、着物も、食べものでさえ、すべてが借り物だ。国を失うということの惨めさをさんざん味わった。それが26年続いたのだ。
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 伊豆伊勢家 1566年
 氏綱は亡命先の三河で死んだ
 光喜は伊豆伊勢家最後の男子

永禄9年、山城伊勢家の貞頼が死に、わたしがその跡目に選ばれた。わたしは不安だった。46になるまで自分の領地を持たなかった男が、守護の大任に応えることができるのだろうか?

しかし伊勢家中の意思は固く、わたしは彼らの言うままに伊勢家の家督を継いだ。政所執事を代々勤めた高家の一員として、なにひとつ恥じることのない統治を行わねばと思った。

領国の日々
今出川邸で政務を取りはじめたわたしだが、いざ家を継いでみるとこれが大変だった。訴訟に接待、年貢取立、年中行事と目もくらむ忙しさだ。それだけではない、知らないことが多すぎて自分の知識と能力のなさが嫌になる……。

わたしは暇を見つけて比叡山延暦寺に通うことにした。
叡山は学僧の集うところだ。ここで法華経ほかの教養を学び、領国経営に役立てようではないか。まずは在俗信徒として預流(sotāpanna)の階級から始めることになった。
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 「ともに預流として入門した身だ、お互い助け合っていこう」

叡山で友人もできた。
備後国恵蘇郡の国人、山内勝頼はわたしとほぼ同年代で、領国の経営について同じ悩みを抱えていた。勝頼と話すことで解決法を思いついた問題もあったのだ。
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 5年の時限つきながらうれしいstewardship+2
 学問は楽しい
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またわたしは畿内の各地を巡検しながら、その土地土地で獲れる魚について書き記していた。先代貞頼が書き残した『釣魚論』を完成させるためだ。

直すべきところが多く、原稿をまとめるには時間がかかるが、数年のうちには上梓することができるだろう。
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 「兵は将のことをよく見ております。
 判断に迷うところを絶対に見せてはなりませぬ」

三河国設楽郡の国人、菅沼道胤には軍の指揮について学んだ。
彼は防衛戦に長けており、今川氏との戦争では大いに敵を悩ませたという。わたしは彼とも友人になった。
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 「……おおせのままに」

同じ三河でも額田の国人、松平堅信とはあまり仲がうまくいっておらぬ。功に応じて伊勢家の目付に任じてあるのだが……。彼はどうやら三河国守護の座を狙っているようだ。しかしそれを渡すわけにはいかないので困っている。
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元亀3年、わたしは主君の畠山義敦殿から能登国鳳至郡を賜った。長年領地をくれとうるさく請願していたことが実ったのだ。

できればもうすこし都に近い郡を欲しかったものだが、贅沢は言うまい。わたしはこの鳳至郡を長男に任せることにした。
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 御恩には奉公で応えなければいけない
 畠山殿を助けて管理up
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天正3年、叡山での学業が実り、わたしは次の階梯である一来(sakadāgāmin)に昇格することができた。有身見、疑、戒禁取の三結を克服したと認められたのだ。次なる課題は三毒(貪欲、怒り、愚かさ)だがこちらはなかなか難しそうだ。
 
木津の争乱
その年の9月、木津で騒ぎが持ち上がった。
大和に米ぬかを運ぶ興福寺の牛飼と、山城の木津衆がそれぞれに公事を取り立てようとしたのだ。二つの勢力の対立は拡大し、ついに刃傷沙汰にまで及んだ。
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 添上郡(南都)に対するclaimを行使

わたしは山城国守護として木津衆を守らねばならない。そこで軍勢を招集し、大和に進軍して興福寺を包囲するよう命じた。
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 大和・紀伊守護 岩瀬家直の子、道頼
 大変な学がある

だが大和守護岩瀬道頼のほうが動きが早かった。
彼は9700の軍勢を集めると、先手を打って南山城へと侵攻してきた。

現在の兵数は互角。
これでは心もとないので、わたしは山城国衆に金を払って3100名を軍に加えた。
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合戦は八幡の渡しで行われた。
わたしは輿に乗って出撃し、前線で指揮をとった。

山城国衆の援護を得た伊勢軍は押しに押し、新兵器『鳥銃』の戦列が無慈悲な火を吐いた。岩瀬軍は総崩れになって大和へ逃げ去った。わたしは勝ったのだ。

しかし追撃する我が軍に急使が追いついた。
主君の畠山殿からの知らせだ。いやな予感がした。手紙は簡にして要を得たものだった。
 
「畠山家領内での私戦は許さぬ。即時の停戦を命じる」
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 またもやRealm peace

畠山殿の命ならしかたない……。
わたしは岩瀬道頼と和睦し、軍を山城に引き上げた。
添上郡を取れると思ったがあきらめよう。無念。
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今出川邸に戻ったわたしは、前から手をつけていた『釣魚論』を完成させた。ちょうどいくさで延び延びになっていたものだ。先代貞頼の苦心の労作をこうして完成させてみるとなかなかに感慨深い。
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 外交+1 管理+1と大きなボーナスがある

世の人々はこの書を読んで釣りの楽しさに目覚めるであろう!

摂津侵攻
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 京の都を治める足利義盛
 堀越公方政知の末裔 
 長年にわたって伊勢家を支えた

ある日、祐筆の足利義盛がわたしに話しかけてきた。
「光喜よ、少し聞いてほしい話がある。いま細川澄盛がいくつものいくさを抱えているのを知っているな?」
「うむ」
「彼の軍勢は山陽におり、摂津が手薄だ」 
「まさか」
「そのまさかだ。この機に乗じて摂津を取れ」

摂津には兵庫の津があり、また淀川沿いには細川氏の重要な拠点が連なっている。ここを奪取することで大きな打撃を与えることができるだろう。

「相手は大大名だぞ。いくらなんでも荷が重い」
「この書簡に記された数字をみてくれ。これが今の細川澄盛の兵力だ」
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 山陽と南海の大大名 細川澄盛
 続く戦争で兵数を6800まで減らしている

「相手に同盟はなし。こちらが動員できるのは11500。これは……いけるな」
「いける」
「すぐに国衆に軍勢催促状を出せ。摂津を公儀のもとに回収する」

天正6年の春、山城番衆6500、鈴鹿と三河からの軍勢5000が宇治に集結。八幡で淀川を渡り、そのまま南下して摂津に押し入った。
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 1578年3月
 細川軍主力は山陽方面に展開しているようだ

わが軍は武庫郡・川辺郡に展開し、諸城を包囲にかかった。不思議なことに細川軍はまったく姿を現さない。このままいくさは終わるかに見えたが……。
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 1580年3月28日
 生田の合戦

天正8年になってついに細川軍があらわれた。山陽でのいくさを終え、神速で播磨から摂津に抜けて須磨の浦に陣を敷いたという。

わたしは兵を鼓舞するために輿の上に立ち上がった。

「敵は大大名、それも管領を代々勤めた細川殿だ。しかしいまや彼は管領でもなく、公儀の一部でもない。では聞くが、つわものどもよ、公儀の側に立つのは誰だ?」
「俺たちだ!」
「そうだ、つわものどもよ、我々こそが公儀だ」
「俺たちが公儀だ!」

わが軍の士気は十分だ。
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だが生田の森で戦いが始まると、細川軍の精強さが目立ち始めた。兵数ではこちらが上回っているものの、敵の侍衆はきわめて強力だ。

わが軍の中央は崩壊し、そのぶん左翼に圧力がかかり始めた。そしてこの合戦に我々は負けた。そうだ、負けてしまったのだ。
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三河で国一揆が起きたという知らせを受け取ったのはこの時だ。松平堅信の息子、信秀が3つの郡の国人をまとめあげ蜂起した。

二方面で戦えるほど伊勢家は強くない。
さて、どうするか?

わたしはよくよく考えたのち、三河を放置して細川軍主力を追うことに決めた。生田の森の合戦に負けたとはいえ、数ではまだこちらの方が上回っている。追って、追って、追って、地の果てまでも追いかけてやる。
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 生田の森の合戦以外のすべての追撃戦に勝利
 兵数的にぎりぎりの戦いが続く

天正9年12月、わたしはようやく細川軍本隊を撃滅した。摂津から始めて、丹波、備前、備中まで追撃を続けたのだ。わたしも兵もへとへとになっていた。
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 ようやく和睦

こうして摂津国は晴れて公儀のもとに回収され、伊勢家がその支配を行うことになった。
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 1582年、伊勢光喜の領地
 飛び地が多い
 
三河処分
三河の国一揆を鎮めるのに6年かかった。
松平氏の抵抗は激しく、1郷1郷を削り合うような厳しい戦いが続いた。
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この戦いの最中、松平郷を包囲していた伊勢貞晃(先先代貞雅の末子だ)が大怪我をし、まだ若い身空で死なせてしまった。すまないことをした……。
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天正14年10月になってようやく首魁の松平信秀を捕縛した。
首を斬るなり、牢で腐らすなり、どのようにでもできるはずだったが、三河の国人の動揺を抑えるために信秀を解放。ふたたび在京させて目付の役に任じることにした。頼むからもう騒ぎを起こさないでくれ……。
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 1589年(天正17年)4月、足利幕府と諸大名

公儀は北陸でもじわじわと版図を広げ、畿内・東海・北陸を押さえる一大勢力となった。
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 17代将軍足利盛政 義材の孫

いまや公方様は32000の兵を動かすことがおできになる。東国一の扇谷上杉家でも26000の兵力にすぎないので、名実ともに日の本最強を号するにふさわしい大君となられたわけだ。
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天正18年4月、つい先頃のことだが、わたしは馬に踏まれて大怪我を負ってしまった。この怪我は治るまい。ここにおまえを呼んだのはそういうわけだ。

先代からの言いつけにより、わたしが死んだあとは先代貞頼の家系に家督を戻すことにする。その中でも義詮、おまえを選んだのは、おまえが貞頼の息子たちのなかでもっとも強健で、勇ましく、武に優れているからだ。

伊勢家をよく率いて、公方様をもり立てよ。
民を安らげ、公儀のために尽くせ。
そしてわたしのために冥福を祈ってほしい。 
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ああそうだ、忘れるところだった。
大和千手院派の刀工家尚に作刀を依頼してあるので受け取っておくように。733貫もの大金を払ったのでさぞかしよい刀ができることだろう。
 
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 1590年(天正18年)、伊勢光喜死去
 約束通り本家に継承を戻し、
先代貞頼の4男義詮に家督が渡った
 刀工家尚からの便りはなく作刀の件はうやむやになってしまった


次回、義詮が語る

静かに……。
いまわたしは推敲しているところなのだ。
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 貞頼は本を書いている

何を書いているかって?
よくぞ聞いてくれた。

この書は題して『釣魚論』
世の書物では弓馬や連歌、蹴鞠や接待ばかりを論じているが、釣りを論じるものはこれまでなかった。こいつは評判を呼ぶぞ。釣りはいい。仕掛け、待ち、魚との勝負……そこには武家の学ぶべきすべてがある。

ああ、集中が切れてしまった。
書くのはしばらくやめにして、わたしの話でもしよう。
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 山城国守護、伊勢貞頼
 高い管理と学習を誇り、歌人としても知られる

永禄5年、兄の貞雅が死に、わたしは伊勢家の家督を継いだ。兄はわたしを高く買ってくれていたようだが、実際には人より少し得意なことがあるというだけだ。
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 管領位継承者、貞澄

家督を継いでまずやったことは、継承者の決定だ。
わたしは次の山城国守護には兄の長子貞澄を選んだ。ちなみに彼は潮義姉様(女管領)の子だから、そのうち彼女の管領位を継ぐことが決まっている。

わが主君の畠山殿は押しも押されぬ大大名だが、管領位を持っていない。もしそこで伊勢家が管領位と山城国守護職をともに継承したらどうなるか? うまくいけば畠山殿の支配から独立して公方様の直臣になることができるのではないか。
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 山城伊勢家
 管領位は王国級なので、貞澄がうまく継承すれば同じ王国級の畠山氏から独立できる?

かつては斯波、細川、畠山の三家のみに許された管領位。
せいぜい政所執事を勤めてきたにすぎない伊勢家には少々荷が重い称号だ。なにより武家の故実に大いに反する。

しかし細川氏から管領位が剥ぎ取られ、足利家の女子に与えられた時点でその権威は失われた。いまとなっては名前だけの役職だが、そういう使い方もできるということだ。

だが世の中そんなにうまくはいかないものだ。
伊勢家中でわたしと同じ意見の者は少なかった。彼らが伊勢家の後継者に誰を選んだと思う?
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伊豆の伊勢氏綱の子、光喜だ。
あちらの伊勢家はせっかく切り取った伊豆国を扇谷上杉家に取られてしまい、三河に逃げてきていた。
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 山城伊勢家(左)と伊豆伊勢家(右)
 遠く離れた光喜に家督がわたる予定 
 タニストリー継承は複雑怪奇だ

なぜ伊勢家中はこの男を選んだのだろうか?
兄やわたしの息子たちがまだ若かったということはいえるが、それにしても意外であった……。

だがこの伊勢光喜、会ってみるとなかなかの男前だった。これなら伊勢家を負って立つに不足はないと思った。そこで次の代は本家に継承を戻すという約束で、彼をわたしの猶子とし、家督を継がせることにした。まあうまくやってほしいものだな。

将軍家のこと
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 16代将軍足利稙義 義材の子
 執念の復活
 相国寺軟禁中に茶の心得を学んだようだ

それから公方様のことがあった。
先の公方、稙義様は弟である満義様によってその座を追われたわけだが、満義様が疱瘡で亡くなられると、意気揚々と御所に戻ってこられた。
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わが伊勢家は天文の変で満義方に立って戦ったので、まあはっきり言って気まずい。だがわたしは割り切ることにした。公方様は公方様、伊勢家は黙って忠誠を誓っておればそれでよいのだ。

もちろん畠山殿はいい顔をしなかった。当然だ、自分が追い出した公方にかしずかなくてはならなかったのだから。彼が公方様に伺候するときの顔は見ものだったな。

畠山家のこと
その畠山家は畠山家で大変な時期を迎えていた。
あれは永禄5年のことだったか……。

河内と大和の国衆のあいだで山出入りがあったのだ。
それを畠山殿が仲裁したのだが、河内側に不満が残った。そこで河内の国衆は境を越えて押妨を繰り返し、しまいには大和守護の岩瀬家直が出てくる騒ぎとなった。
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 大和・紀伊守護の岩瀬家直
 動員兵力7900
 伊勢家のライバル

岩瀬家直は紀伊熊野大社の神官堀内氏貞の子だ。先代の畠山薫殿に取り立てられて、紀伊・大和・伊勢の国衆を束ねる守護に成り上がった。

このような先代の恩があったので彼は畠山殿の忠実な臣下だった。しかし、その家直を畠山殿はきつく叱った。一度仲裁した国衆の争論に首を突っ込むなというのだ。だがその叱り方がまずかった。被官たちが見ている前で家直の頰を打ったのだ。

岩瀬家直は齢60にして憤怒の人だ。
いかに主君とはいえ、24も歳下の畠山殿に頰を打たれたことが彼の怒りに火をつけた。その怒りはふつふつと滾る煮油のようであったというぞ。

そこで彼は兵を挙げた。畠山殿の遠い親戚にあたる畠山義敦を奉じて、紀伊と大和の守護所に陣取った。そのまま河内へ進撃して、主君の首をすげかえようというのだ。
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 永禄の変(1562-1566)
 岩瀬氏の紀伊・大和・南伊勢がまるごと畠山昭義の敵方に回った
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 反乱軍の将、畠山義敦は畠山政長の曽孫
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 一方、畠山家の現当主昭義は畠山義就の曽孫
 かつて政長と義就は畿内をめぐって争いを繰り広げた
 今回はその曽孫たちによる因縁の対決

あのとき、わたしはどうすべきだったろう?
わたしには3つの道があった。

1. 主君である畠山昭義にしたがい、岩瀬家直の乱を鎮圧する
わたしはこの道を取らなかった。畠山殿の御恩に報いるにはこの道のほかはなかったのだが……。気が乗らなかったものでな。

2. 主君である畠山昭義に対して独立戦争をしかける
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 反乱の結果、動員兵力を8900にまで落とした畠山昭義

この好機に独立戦争をしかけ、畠山殿の支配を離れて公方様の直臣になることもできた。だが岩瀬の乱はいつ終わるかわからない。もし乱のほうが早くおさまってしまえば、わたしは一人で畠山殿と戦う羽目になる。それは避けたいのでこの道も取らなかった。

3. 静観する
わたしは結局この反乱を静観した。
その結果、永禄9年にいたって反乱軍が勝った。昭義殿は畠山家の家督を失った。
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「伊勢家の静観、ありがたく思うぞ」

新しく畠山殿となった義敦殿は感謝の言葉を述べてくれた。彼が勝てたのはわたしが動かなかったおかげだということをよく分かっていたのだ。この新しい主君とわたしの間柄はけっして悪くなかったが、それ以上のものではなかったな。

一色征伐
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 1562年の三河周辺

永禄の変を静観していたあいだ、何もしていなかったわけではない。実はわたしはその期間、軍を率いて三河にいた。
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 三河の国人、松平堅信
 安祥松平家松平長親の曽孫

三河国にはかつての伊勢家在国被官が大勢いることはよく知られている。そのうちの一人、額田郡の松平堅信は折にふれて今出川邸に便りをくれた。

「三河を治める一色氏はこれまでになく弱っている。伊勢殿が三河をものにする好機ですぞ」
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 三河守護、一色国信
 丹後一色家の一色義直末裔
 この兵力、いったいなにがあったのか

国人らにそっぽをむかれた一色氏は風前のともしびだ。周辺の大名が虎視眈々と三河を狙っている。取られる前に取らなくては!
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わたしは公方様の裁許を得たのち今出川衆を動員し、9600の兵をもって三河へと侵攻した。抵抗はまったくなく、一色国信は尾張へ逃亡した。
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永禄7年、わたしは三河全域を征服し、勝利した。
こうして四職の筆頭一色氏はあえなく退場となった。
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伊勢家の領国の拡大は公儀の拡大でもある。
なにより三河国にはかつての御料所がたくさんあった。
 
公方稙義様は三河を版図におさめたことを大変喜ばれた。わたしを三河国守護に任じていただき、またすでにお持ちだった三河国内の被官をわたしの配下にするよう取り計らっていただいた。ありがたいことだ。
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 東海道の要地を押さえていく
 伊勢家のもう一人のライバル六角氏は近江と北伊勢を押さえた

こうしてわたしは山城・三河両国を統べる大名となったのだ。
伊勢家にとってこれは大きな進歩だ。
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しかしあらたに加わった三河の国人たちは不満をつのらせているようだ。東海に住む彼らは、我々畿内の人間とは異なった気風を持っている。いろいろともめごとも増えそうだ。三河で頼りになるのは松平堅信くらいか……。
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 近江守護 六角持義
 兵11500という畠山氏に次ぐ大勢力

こうなると、気になってくるのが六角氏だ。
六角氏の領国は山城と三河を結ぶ経路上にある。できれば仲良くしたいものだ。そこで将来を見据えて同盟を結んだ。吉と出るか、凶と出るか。
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——夜も更けてきた。思わずつらつらと語りすぎてしまったな。話はこれで終わり。わたしは書の推敲に戻るとしよう。
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今ちょうど難所にさしかかっておってな、徹夜で書いておるのだがなかなかうまく書けぬ。

いささか疲れも出てきたが、なに、いくさに比べれば大したことはない。来月にでもこの書は完成をみるだろう。ぜひ楽しみにしていてくれ。
 
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 1565年冬、貞頼急死
 連日の徹夜執筆は確実に彼の体をむしばんでいたのだ
 結局、本が完成することはなかった
 伊勢家家督は約束通り、伊豆伊勢家の光喜に渡った


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