Unhistory Channel 152 - パラドゲー記録

Paradox Interactive, Crusaderkings2, AAR

 貞雅は16で伊勢家の家督を継いだ
 兵数2900

弟よ。
頼りない俺をよくここまで支えてくれたな。兄の貞義が死んだとき、俺は当主になるつもりはなかった。なぜなら弟よ、おまえのほうがよほど出来がよかったからだ。しかし選ばれたのは俺だった。
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 伊勢家3兄弟のうち長子貞義は家督継承直後に戦死
 伊勢国鈴鹿郡を攻める最中だった
 残された貞雅と貞頼はよく協調して伊勢家を運営した

俺は伊勢家当主のつとめとして武家の故実を学んだ。しかし学べば学ぶほど、故実と現実の差にうちのめされた。この戦乱の世にあって公方様は敬われはするものの、実際には畠山殿の傀儡と化していたからだ。
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 足利家の姫君、潮
 前将軍義材の娘にして現将軍稙義の姉

俺の婚約そのものが故実からみて好ましくないものだった。
公方様の御供衆でしかない伊勢家が、将軍家から妻を迎えるというのはどうみても釣り合いがとれぬ。
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 1523年 足利幕府

しかし一方では、山城国守護として京畿をがっちり抑える伊勢家と将軍家が強い結びつきを得ることは、公儀にとっては望ましいことだった。それで俺は潮姫を娶ることを約し、あらためて公方様に忠誠を誓った。

時代が変わるにつれ人も変わってゆかねばならない。
そのことを俺はよく知っていた。
28
 1528年、大永の土一揆

大永8年、京の都で徳政一揆が起き、いくつもの土倉や酒屋が襲われたことを覚えているか。あの一揆は油を注いだ火のように膨れ上がり、上京も下京も焼き尽くした。俺は急いで被官を招集し、一揆の鎮圧にあたった。
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 8500という大兵力を抱える薬師寺元一

公儀が一揆で弱ったとみたか、細川管領方の摂津守護代、薬師寺元一が攻めてきたのもこのときだ。今思えば、公儀はきわめて剣呑な状態にあった。
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 1530年3月28日
 河内国若江の合戦

弟よ。あのとき、おまえがいなければ戦いは負けていた。
軍奉行であるおまえは敵前で果敢に渡河し、薬師寺の軍勢の側面を抜いた。薬師寺勢は総崩れとなって摂津へ逃げ帰った。おまえは公儀を守ったのだ。
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この功に応じて、俺はおまえに鈴鹿郡を与えた。
また山城国の在国被官を機動軍として再編成し、部隊の指揮をおまえに任せた。この軍勢はわが邸宅のある今出川にちなんで『今出川衆』として知られるようになった。

この今出川衆は畠山殿の配下にありながら、公儀を防衛するためだけにたびたび出兵した。そこで都びとからは『山城番衆』と呼ばれることもあった。 
20
 「わが蒼玉よ、そなたの美をこの歌で讃えよう」

天文2年、俺は将軍家から潮姫を迎えた。
彼女は若く美しかった。俺はその美に歌を捧げ、歌は京の都に広まった。俺が歌人として知られるようになったのは、このことがきっかけだ。

足利家のごたごた
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天文7年8月、わが主君である畠山盛頼殿が亡くなった。その娘の薫殿が女の身でありながら新しく畠山殿となられた。
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彼女は家督を継ぐとすぐ、近江守護足利満康様に宣戦を布告した。これにはいささか複雑な事情があったな……。
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たしか満康様は堀越公方政知の孫で、父の茶々丸様が一時公方となったために愛宕郡と北近江を相続したものだ。
名称未設定
 近江守護足利満康の領地(山城国愛宕郡+北近江)
 現将軍稙義は近江国坂田郡に御所を構えている

いまの公方稙義様は満康様の勢力を減じることを望んでいた。薫殿はその意を受けて宣戦した。ちょうど俺が山城国守護であるために、山城国愛宕郡に対する請求を行うことができたというわけだ。
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 1539年、伊勢貞雅の領地
 六角氏がめざわりだ……

戦いは順調に進み、わが今出川衆5700は愛宕郡を占領した。こうして俺は右京左京のすべてを抑え、京の都は名実ともに山城国守護の領するところとなったのだ。

だが、臣下となった愛宕の国人足利政晴から愛宕郡を簒奪することはしなかった。故実を旨とする伊勢家が足利一門に対して礼を失するようなことがあってはならない。弟よ、このことだけはよくよくおまえにも頼んでおくぞ。
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 14代将軍稙義

それからこんなこともあった。公方であられる稙義様のことだ。彼が近江の交通の要地坂田郡佐和山に御所を構え、佐和山御所と呼ばれていたのはよく知られるとおりだ。

京の都ではなく佐和山に御所を置いたのには理由がある。稙義様は北陸と東海への進出を望んでおられた。そのため御所を戦線に近いところへ置かれたのだ。
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天文8年2月、公方稙義様は諸守護に対し、越前の朝倉征伐を行うことを命じた。だがこの征伐には反対論が多かった。なかでも強硬に反対していたのが畠山の薫殿だ。彼女は朝倉家とのあいだに友誼があり、この征伐は避けたいものだったのだ。

うわさではそれだけではないという。公方稙義様は貪欲なところがあり、いくさで得た領地を分配されることなく、すべてを自分のものにされた。畠山殿はこのような公方様のやり口を大変嫌っておられたという。
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 1539年、天文の変

同年11月、畠山殿はついに兵を挙げた。
公方稙義様に変わってその弟満義様を擁立しようというのだ。稙義様には六角殿がつき、満義様には畠山殿がついた。またもや公儀を割る内戦がはじまってしまった。
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俺はよくよく考えた結果、畠山方についた。
兵12000を数える畠山殿が負けるとは考えられなかったし、直上の主君でもある。公方様に歯向かう不義理をいうなら、畠山殿のかつぐ満義様もまたさきの公方義材様の立派なご子息であられる。問題はない。
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 15代将軍満義

天文10年4月、いくさの決着がつき満義様が公方となられた。稙義様は捕らえられ、相国寺の塔頭のひとつに押し込めとなった。その後のことは聞こえてこない。
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 足利義視ー義材流が栄えている
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話は変わるが、南蛮人が鎮西に渡来したのは天文12年のことだったかな。おまえも知っているとおり、綴喜郡に火縄銃の工房を作った。だがまだ部隊を編成できるほど生産は進んでいない。
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 うれしいstewardship+2

同じ頃、俺は山城国検地を行い米の取れ高その他を記録させた。国は民によって立つ。覚えておくことだ。
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検地をするだけではなく、俺は新しい領地を欲していた。目をつけていたのが伊勢国司北畠領だ。俺は鈴鹿に地続きの河曲郡を狙い、名分を得るために古文書を偽造した。
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 河曲郡を奪取!

伊勢国はすでに畠山殿配下の大和国衆に蚕食されている。ここは早い者勝ちだ。そう思ったのだが。
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 1549年、足利幕府

天文18年、公儀はほぼ伊勢国を併呑した。ただしその内実は畠山配下の大和の国衆による押領がほとんどだ。畠山殿は河内、紀伊、大和、伊勢、山城、越中を手中におさめ、公儀における体制を盤石なものとしている。

一方、結局俺は伊勢国では河曲郡しか切り取ることができなかった。無念だ。

女管領
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 貞雅の主君、南畿内の大大名 畠山昭義
 兵力13000はあまりにも強力だ

またこのころ畠山家中に代替わりがあり、薫殿の弟昭義殿が畠山殿となった。礼儀を知り、学問にも明るいなかなかの人物だ。女に興味がないといううわさも聞くが……。俺には関係のないことだ。
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それから潮のことがあった。
天文19年12月、とんでもない知らせが舞い込んできたのを今でもよく覚えている。

公方様が管領細川殿に対していくさをしかけたのだ。そして聞いておどろくな、わが妻である潮(覚えているだろうか、彼女はさきの公方義材様の娘だ)が正当な管領であるという言い分だ。

あれにはあいた口がふさがらなかった。女大大名の次は女管領ときた。故実に反するもはなはだしい。なにより潮本人が呆れかえっていた。

しかし公方様のされることなので、従うほかはない。おまえを京の押さえに置いて、今出川衆6900を率いて俺は出陣した。
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天文20年5月、公儀の軍勢は摂津に侵入した。俺が目指したのは大坂の寺内町だ。ここを落とすだけでもかなりの戦果が見込める。
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 鈴鹿の郡主、弟貞頼
 なにか陰謀を巡らせていたらしい

このことを蒸し返したくはないのだが……。
あのときおまえが京の都で画策していた陰謀については感心せぬな。弟よ、おまえは俺の世継なのだ。そのことをよく覚えていてほしい。つまらぬ陰謀からは距離をおくことだ、いいな。
08
 王国級の管領位を手にいれるが……

翌年いくさは終わり、わが妻である潮は女管領となった。
ただし実権はまったくなく、細川殿から管領位をはぎとったにすぎぬ。要は管領の時代は終わったのだ。いまは戦国、在国によって立つ大大名の時代。すべては蝋燭の火のようにうつろいゆく——。

潮が往ねば、俺の長男貞澄が管領位を継承することになる。しかし山城国守護職はさきに述べたようにおまえのものだ。
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さて、今出川衆の功をもって、畠山殿は伊勢家に守護職を与えてくれた。それも越中1国をぽんと任せてくれたのだ!
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しかし守護職を与えられたのは俺ではなく、まだ2歳の次男貞正だった。できることなら俺自身あるいはおまえに越中をもらいたかったものだが……。畠山殿には畠山殿のお考えがあるのだろう。

これによって、次代の伊勢家は
・山城国守護 伊勢貞頼(おまえだ)
・管領 伊勢貞澄(わが長男)
・越中国守護 伊勢貞正(わが次男)
の3家に分かれることになる。 
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 畠山昭義にべた褒めされる
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楽しみなのは男子だけではない。
わが長女の桐はきわめて賢く育った。彼女は次代公方の盛政様に嫁入りすることが決まっている。彼女は人当たりがよく、よき妻となることだろう。
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 1559年の勢力図
 将軍家や畠山家がいくさを起こすたびに参戦し
 領地を広げるのを助けてきた甲斐があった 

永禄2年には公儀は飛騨と伊勢を確保し、尾張、美濃へと進出した。公儀の支配は復活しつつある。だがそのほとんどが畠山領であることは先に述べたとおりだ。

弟よ、このまま畠山殿に忠誠を尽くすのだ。それが公儀のためでもあり、伊勢家のためでもある。畠山殿の庇護を失えば、たちまち大和の国衆や六角殿が山城国を狙ってくるだろう。ときは戦国、誰も信用ならぬと心得よ。

よき統治を願っておるぞ、弟よ。
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 1562年10月、伊勢貞雅は53歳で死亡
 約束通り、山城国守護職は弟の貞頼へ渡った


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 北山城の守護代、伊勢貞忠

永正2年、わたしは伊勢家の家督を継いだ。
父貞陸の不名誉な死——延暦寺の秘宝を盗もうとして斬殺された——はわたしの心に深い傷を残したが、日々の忙しさがそれを紛らわせてくれた。
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 河内守護、畠山義豊の子義英

「父君の件は残念であったな。しかし気を落とさずにわが被官として勤め続けてもらいたい。わが父は山城国守護職をそなたの父から召し上げたが、状況が許せばそのうち伊勢家に報いることもできるだろう」
 
「畠山殿にそう言っていただけると少しは気が晴れます。しかし、ほんとうに守護職を返していただける日はくるのでしょうか」
 
「しばし待て。南畿内をまとめあげ、細川に後れをとることのない大大名となった日にはかならず。わたしから直々に公方様にそのように注進しておこう」
 
「ありがたき幸せ」
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守護職をとりもどすためには実際の統治を確立することも重要だ。わたしは領地を掌握すると、さっそく父の遺志である綴喜郡の奪取にとりかかることにした。
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緒戦で古市氏の軍勢を打ち破り、綴喜郡の城を包囲した。前回はここで畠山殿の介入があったが、根回ししておいたとおり、畠山殿は動かなかった。ありがたいことだ。
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 古市澄胤の子公胤

「南山城はわが父親が封された古市の正当な領地だ! 無法なふるまいは父親のようにかならず神仏の報いを受けるぞ!」
「それはそれは」
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こうしてわたしは山城国6郡のうち4郡を支配する領主となった。わたしはそれぞれの領地を足しげく訪れ、国衆たちと親しく交わった。御料地からの収益を確実に上げ、公方様の命令にもとづいて寺社領を回復するためだ。

わたしは重い賦課を好まない。それよりも年貢が着実に納付されることが大切だ。このことが周知されると、国衆たちはしだいにわたしを信頼するようになった。それがわたしの自信となり、領国経営はうまく回りはじめた。
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  直轄地増加のため、地道に管理をあげていく
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永正8年、続いて古市領相楽郡へ侵攻。
これをわがものとし、公方様の領する愛宕郡を除いた山城国の支配を実現した。
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 山城6郡のうち5郡を支配

永正10年秋、わたしは河内の若江を訪れた。
新しく畠山殿となった盛頼殿に呼ばれたのだ。
05
 畠山義英の弟、盛頼
 南畿内を制覇し、幕府内の王国級に成り上がった
00
「生前の兄から話は聞いている。古市を南山城から放逐したそうだな。常であれば被官同士にて弓矢に及ぶは許さぬところだが、今回は不問に付す。そしてあらためて山城国守護に任じよう。公方様のお墨付きはすでに得てある」
 
「ありがたき幸せ」

「勘違いするな。守護に任じるのはわが勢力内で家臣同士の争いをするためではない。あくまで合力して公儀を盛り立てるためだ。そなたの領地は京の都の直衛にあたる。心して勤めるように」

「おおせのままに」
23
 畠山盛頼が王国級に成り上がったので、
 公爵級にあたる山城守護職が伊勢家に分配された

こうしてわたしは伊勢家に守護職を取り戻したのだ。
父の墓前にてこのことを報告すると思わず涙が出てきた。父はいかほど無念であったろう……。

波乱
11
翌永正11年は波乱のうちに明けた。
ことの起こりは畠山殿と公方様の対立だ。公方義澄様は細川殿に擁立されたこともあって畠山殿との折り合いが悪かった。そこで六角殿、畠山殿は先の公方義材様を擁立し、義澄様を追い出そうとしたのだ。
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 管領細川氏+現将軍義澄
 VS
 南畿内の大大名畠山氏+10代将軍義材

わが伊勢家はかつて細川殿とともに公方義澄を擁立したので細川方につくのが正当だが、現在は畠山殿の家臣なので畠山方につくことになる。

こうして先の戦以来の大乱がはじまった。
軍勢が西へ東へと移動し、領国は荒れ果てた。
わたしも軍勢を率いて細川方と何度も戦った。

ところがその翌年、永正12年になって風向きが変わってきた。
細川方の公方義澄様が亡くなられ、子の満康様が公方になられると、細川殿は軍勢を急に引き上げてしまった。
00
細川殿は何を考えていたのか?
彼は領国に閉じこもり、公儀からの自立にむけて動き始めた。つまり公儀とは別の国、管領による独立王国を打ち立てようというのだ。公儀あっての管領だと思っていた我々にこの事件は衝撃だった。もはや管領は公方様の権威すら必要としないのか……。

しかし考えてみれば、たしかに以前からその兆候はあった。みな見て見ぬふりをしていただけなのだ。こうして細川氏の独立によって幼い満康様は後ろ盾を失い、わずかな近習とともに各地を逃げさまよったという。
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 13代将軍として返り咲いた足利義材

かくなるうえは是非もない。
公方は畠山殿の推す義材様ということに決まり、戦乱は公儀とそれから離脱しようとする細川殿という構図に変わった。
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永正14年、ついに戦は終わった。
細川殿は公方様と和睦し、そしてみずからが公儀から自立した管領政権となったことを宣言した。

細川殿と畠山殿の両輪で回ってきた公儀の体制はついに終わりを迎え、その領国は半減した。残ったのは畠山殿だけ。これで公方様は完全に畠山殿の傀儡と化した。もはや公儀は風前の灯だ。

これから伊勢家はどのように生きてゆけばよいのだろうか。
わたしはひどく悩んでいる。
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3人の息子たちに言い残しておきたい。
公儀への忠誠を尽くすこと、それから畠山殿の恩義に応えること、この2点だけは忘れぬようにせよ。

しかしまずは自身が生き残ることだ。
確かに言えるのはそのことくらいだ。
48
 大永3年、伊勢貞忠は静かに世を去った
 長子の貞好が家督を継いだ


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