Unhistory Channel 152 - パラドゲー記録

Paradox Interactive, Crusaderkings2, AAR

ロマニア大乱は人々の心に深い傷を残した。
ひとつの世紀が終わろうとするこの頃、長いあいだ信じられ、心のよりどころになってきたものが根本的に変質してしまった。

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1391年、前女王アヴェイスの戴冠にも立ち会ったユリウス2世教皇が亡くなった。ローマで召集されたコンクラーヴェでは市内出身の枢機卿が選ばれ、ランドー2世として即位した。

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 新教皇ランドー2世

彼は改革主義者として知られていた。風紀の乱れと信仰の衰退を嘆き、かつて諸王をその徳によって平伏させたグレゴリウス7世を理想と仰いでいるともっぱらの噂だった。

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 年老いたブーヴ・ドートヴィル
 遠征を成功させたためか「大王」と呼ばれている

ランドー2世はシチリア王ブーヴについてよい感情を持っていなかった。オートヴィル家は伝統的に教皇派ではあったが、近頃はスポレト領の領有を巡って争いが絶えなかった。それにテッサロニキに宮廷を移してからは、もはや教皇の機嫌を伺うこともやめてしまっていた。

コンクラーヴェでもブーヴは金にあかせてノルマン系の枢機卿フェランを推した。このことが教皇の不快の念をさらに濃くしていた。
 
「いくらドゥカート金貨を積んでも天国の門が開かれることはない」
選挙での対立が尾を引いたというより、生き様そのものが相容れない二人であったのかもしれない。

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1396年の暮れ、教皇使節がテッサロニキへやってきた。
教皇使節は勅書を読み上げ、シチリア王ブーヴ・ドートヴィルの破門と王国内の聖務停止を告げる。
破門を要請したのは教皇の隣人、サレルノ公ヨセフ・ドートヴィルだ。

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「サレルノ公は代替わりしてから急速に教皇に接近しています」
密偵長のゴーティエはブーヴにそう報告した。
「この破門劇も、おおよそ教皇の筋書きに従って演じられているのに違いありません」

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 密偵長ゴーティエ・ド=リューカ
 スポレト公ド=リューカとともに王を支えた

「ヨセフが教皇に何を約束されているか、わかるか」
「不明です。しかしサレルノ・オートヴィル家は本家に次ぐ王位継承順を持っていますから、あるいは……」
「骨肉の争い再び、というわけか」 
「アテネ家との戦いからようやく立ち直ったテッサロニキ本家に、今度はサレルノ家をぶつける。効果的なやりかたですな」

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ブーヴは教皇の挑戦を真っ向から受け止めた。
まずローマに駐箚していたノルマン人枢機卿フェランを召還、これを対立教皇ハドリアヌス5世としてテッサロニキに擁立した。これでランドー2世の破門は無効になってしまった。

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さらにブーヴは王国法を改正し、聖職の自由叙任を宣言した。完全に教皇に敵対する構えである。
 
王国の司教たちはブーヴを支持し、禁じられた聖務をふたたび行い始めた。友邦ラテン帝国の司教たち、またウトラメールの司教たちもハドリアヌス5世についた。破門を要請したサレルノ公ヨセフですら、渋々これに従った。

教皇は無謬であり、唯一である。
教皇を名乗る者が複数いるということは、『シスマ』すなわち教会の分裂を意味する。この216年間、シスマは絶えてなかった。

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ロマニア大乱のとき、西方教会は何もしなかった。『白い死』が襲ってきたとき、司教たちは「悪疫を撒き散らすユダヤ人を追放せよ!」と説教壇の上から叫ぶだけだった。
たくさんの人々が主の救いを求めながら無惨に死んでいった。生き残った人々はそのことを決して忘れなかった。

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新世紀の足音も近づき、都市には新たな文化が生まれつつある。
大乱でイタリアへ逃げてきたギリシア人学者たちによって異教時代の文献がさかんに筆写され、頒布されている。ラテン語でなく俗語で書かれた物語本が当たり前のように売られている。

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ローマの聖座は傷から流れ出る血のように権威を失いつつあった。
もう教会がすべてを支配する時代ではなくなっていた……。

バルセロナ家
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1397年6月、アラゴン王ベレンゲー・ルナールから援軍を送ってほしいという手紙が来た。

10年ほど前にブーヴの第4王女フレセンダがベレンゲー・ルナールの妃として嫁いでおり、アラゴンとシチリアはそこそこ親密な同盟関係にあったからだ。

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 フランス系の2王国によってイベリアは再征服された
 バルセロナ家アラゴン王国、カペー家アンダルシア王国

アラゴン王国は50年前のレコンキスタでモーリタニアを征服した。
最近になってマリ皇帝の意を受けた砂漠の遊牧民がジハードを仕掛けてくるようになったので、王は同盟先に助けを求めていたのである。

娘の体面もあるのでブーヴは援軍を出すことに決めたが、さすがにモーリタニアは遠すぎる。そこで傭兵を9000ほど送ってお茶を濁すことにした。

9月、帝都コンスタンティノープルから急報が届いた。まもなくバルセロナ宮廷からも便りが届いた。何があったのか。

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ビザンツの帝位簒奪者コンスタンティネ・ラスカリナが死んだという。そうなれば、ようやくラスカリス本流に帝位が戻ることになる。皆そう思っていた。

しかしその先を聞いてブーヴは耳を疑った。 

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 娘婿ベレンゲー・ルナール、ビザンツ皇帝として推戴される
 バルセロナ朝ビザンツ帝国の創始

帝国諸侯は正統な7代皇帝アンドレアスを復位させるのではなく、コンスタンティネの孫への継承を望んだ。その結果ラスカリス朝は8代で途絶し、帝位はアラゴンのバルセロナ家に渡ってしまった!

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 ビザンツの天地は複雑怪奇

ギリシア人の皇帝であり、正教守護者であるはずの東方皇帝。
カタルーニャのカトリック信徒であるバルセロナ家がこれに推戴されたという事実は、それまでの東方の秩序を全否定するものだ。いったい何が起きているのか。

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 はからずも東方帝国はヒスパニア、マウレタニア属領を回収
 黒海、地中海、大西洋にわたる版図を実現した

ラスカリス皇帝家は140年前から西方への進出を再開していた。アラゴン王家との縁組もその延長線上にあったと聞く。しかし王朝や宗旨まで変わってしまったとなると……すべてが裏目に出たとしか言いようがない。

オートヴィル家にとっても一大事である。
西方帝国皇后となった長女エレアノールに続き、末娘フレセンダが東方帝国の皇后になってしまった。ブーヴは祝いの使節を帝都に送ったが、内心ひどく混乱していた。

この義理の息子であるカトリック皇帝が治める巨大帝国は味方なのか? それともこれまで通り敵と考えるべきなのか? まるで判断がつかない。

ルム戦役
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 「ブーヴ、我が友よ。軍勢をアナトリアへ送ってほしい。
 トルコ人を駆逐するためにオートヴィル家の力が必要なのだ」

1398年、ラテン皇帝レーモン2世はルム・セルジュク朝にふたたび戦いを挑んだ。

前年のバルセロナ朝ビザンツの誕生はフランドル朝ラテン帝国にとって深刻な脅威となった。そもそもラテン皇帝が皇帝を号するのは、『ローマの後裔たる東方帝国をギリシャ人に代わって統治する』という建前があるからだ。これが同じラテン典礼に従うバルセロナ朝ができてしまうと、どう見たって正統性ではあちらにかなわない。非常にまずい。

レーモン2世は先手を打ってアナトリアを実効支配することで、少しでもビザンツ帝国に対して有利な政治的立場を得ようとしたのである。

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ラテン皇帝の要請に応えて3つの国が援軍を送った。

まず、カフカーズ南麓のアラニア専制侯国。
これはトレビゾンドから別れたコムネノス家の亡命政権で、小さいながらも巧みな外交で生き延びてきた。
 
次にアルパード家のハンガリー王国。
数十年かけてステップ地域へ進出し、黒海の覇権をビザンツと争う強国に成長した。トレビゾンドやマルマラ海南岸にも領地を得るなど、ロマニアをうかがい始めた気配がある。
 
そしてもちろん、3つ目はオートヴィル家のシチリア王国である。

いずれもフランドル皇帝家と血縁関係にあり、それぞれの事情でラスカリス朝ビザンツと対立してきた王家だ。
「ビザンツは大きくなりすぎた。ラテン帝国を育てておかないと後々まずい」という思いが3人の君主に共通していたに違いない。

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 1400年7月、夏でも雪の深いアルメニア戦線

シチリア王軍は手に入れたばかりのアンティオキアから北上した。アルメニアの山地は深く、村にも畑にも食糧は少ない。ノルマン人たちはひどい飢えに悩まされた。

このような戦場では決戦は不利だ。できるだけ主力との会敵は避けたい。黒海やカフカーズから南下してくるコムネノス軍やハンガリー王軍と連絡を取りつつ、チェスの駒のように部隊を動かして敵地を占領していく。

こうして4年後の夏、同盟軍はルム戦役に勝利した。ラテン帝国はアナトリア大守領を獲得し、その存在感をわずかながら増した。

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 1402年のラテン帝国とシチリア王国
 なんとかして帝国加入できればビザンツに対抗できるのだが……

治世の終わり
この頃ブーヴは人前に姿を現さないようになった。
かつての古傷が膿んだという者もいれば、東方から持ち込まれた病に倒れたという者もいた。

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1404年6月、ブーヴ・ドートヴィルはテッサロニキのガレリウス宮殿で亡くなった。60歳だった。

領土を大きく増やすことはかなわず(パトラス領を失いさえした)、内外事情に頭を悩ませどおしの生涯だった。このノルマンの老王の葬儀には3つの帝国、4つの王国から参列者があったという。

後継者のタンクレッドは6歳。彼は『タンクレッド2世』として、古いノルマンの名を帯びて中世の黄昏を生きることになるだろう。いまや15世紀である。

東方の白い死
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 小アジアからギリシア、そして南イタリアへ
 天然痘の感染地域が拡大していった

ロマニアの大乱は13年続いた。勝者はいなかった。
戦いに明け暮れる人々を東方からやってきた『白い死』が呑み込んだのだ。

司教も騎士も農民も、みな肌に白い水泡を生じて死んだ。恐怖にとらわれた人々は仕事を投げ出し、家から走り出て、鞭打ち行列や死の舞踏に身を投じた。
 
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 アテネ公、鉄壁のフェラン・ドートヴィル
 生涯かけて従兄弟ブーヴと対立した

「もはや戦いを続けても無益だ」と考えたアテネ公フェランは、シチリア王ブーヴに和平と再臣従を申し出た。だがブーヴはフェランの使者を追い返し、アテネ公家の完全な屈服を求めた。 
 
この様子を見た人々はブーヴが悪魔に憑かれたと考えた。

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しかし、ブーヴは狂ったのではなかった。彼にはどうしてもフェランと妥協できない理由があったのだ。

フェランの再臣従を認めても、彼は近いうち必ず反逆する。オートヴィル家が現行の男系継承でいく限り、女系すなわちアデル系オートヴィルのアテネ公家とは永遠に不和が続く運命なのだ。

この問題を解決するための策は2つあった。

・アテネ家に公位を返上させ、他の家臣の傍臣の地位に落とす
・法改正で女系継承を可能にする

戦なしにフェランが公位を返上するとは思えない。
また、法改正にはすべての封臣の賛同が必要だ。そしてフェランとの関係はもはや修復しようがない。

つまりどちらの選択肢を取ったとしても、フェラン・ドートヴィルと戦ってこれを排除することになる。

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だが、はたしてそんなことのために国を荒らして戦う必要はあったのだろうか? 悪疫の中、「矛を収めよう」と提案してきたフェランの方があるべき君主の姿ではなかったか?

やはりブーヴは悪魔に憑かれていたのかもしれない。

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主の1392年9月、フェランが『白い死』によって亡くなると、アテネ・オートヴィル家の遺臣たちは公女エロディーを擁立して王の和睦に応じた。

エロディーは一時テッサロニキに人質として送られたが、ブーヴは彼女をすぐに釈放した。
アテネ公位は安堵された。そればかりかブーヴはロードス島をエロディーに与え、彼女を王宮慈善官に任命したのである。

「わたしを女と見ての手加減か、伯父上」

怒りと屈辱で蒼白になったフェランの娘にブーヴは答えた。

「エロディー、手加減ではないのだ。我々はこの13年間あまりにも多くの死を目にした。主はもはや争いを望まれないだろう。本当に主がいらっしゃるとすればだが」

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 継承法を女子・女系可に改正
 王国諸侯は皇后エレアノールを後継に望んだ

王国諸侯は全会一致で継承法を改正した。これで男系女系の差別がなくなり、アテネ・ドートヴィル家との関係もよくなるはずだ。
 
ブーヴはまた後継者について諸侯の意見を聞いた。彼らは第1王女であり神聖ローマ帝国皇后であるエレアノール・ドートヴィルを選んだ。ブーヴはひとまずその意見を受け取った。

たしかに西方帝国との友誼を考えればそれが最善だ。しかしエレアノールを女王にしてしまうと、12世紀末オートヴィル家のようにアスカーニエン皇帝家がのちのちシチリア王位を請求してくる可能性がある。もう少しよい手はないだろうか?

皇女を迎える
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 若く美しいフランドル家のオード

その年の待降節、シチリア王ブーヴはラテン皇帝レーモン2世の妹、オード・ファン=フラーンデレンを後妻として娶った。先の妃エレオノーラ・デ=ラルサが大乱中に亡くなっていたからである。

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皇女オードはなかなかの浪費家だった。
「アラビアの鷹が欲しい」「ペルシアの紅玉の首飾りが欲しい」「豪華なタペストリが欲しい」とわがまま放題だ。

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 オードがフランドルに発注した6枚組タペストリと同デザインのもの
 のちにリヨンのル=ヴィスト家が型紙を流用したと伝えられる

さすがはビザンツのラスカリス皇帝家に張り合ってきただけあって、フランドル家はなかなか豪奢な暮らしをしてきたらしい。

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しかしオードは王の期待に見事に応えた。
1398年春、彼女はついに待望の男子タンクレードを産んだのである。

直系男子の相続に文句を言う者はいない。これでブーヴの継承問題は綺麗に解決した。(もちろんさまざまな下品な噂はあった)

つづけて次男アレクサンデルも産まれ、テッサロニキ宮廷は明るい雰囲気に包まれた。

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このような縁もあって、シチリア王国はラテン帝国と急速に関係を深めた。
ルム・セルジュク朝やカイセリ土侯国との戦役では、ブーヴはレーモン2世に協力を惜しまなかった。お互いの宮廷の行き来も盛んになり、2人はよい友人になった。

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 ラテン帝国に加入できない
 王国に昇格&直轄領の大きさが逆転したためか?
 現時点でswear fealtyはビザンツにしか出ない

ブーヴはラテン帝国への加入を望んでいたが、諸事情により実現しなかった。
祖母の時代の年代記には『テッサロニキ女公の臣従願いは東西のあらゆる王や皇帝に受け入れられた』とあるが、どうやら時代が変わったらしい。

東方へ
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 ウトラメール、1393年
 プランタジネット家のイェルサレム王国は40年間健在だ

『白い死』がおさまり、ロマニア大乱も終息し、東方はすべて元通りになったかに見えた。
ブーヴはレヴァントへの遠征を考え始めた。目標はシリアの要衝アンティオキアだ。

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 アンティオキア大守、イナルチ家のブルカン
 イナルチ家は1330年代の帝国崩壊時に大ハーンから独立した

アンティオキアといえばかつての十字軍士ボエモン・ドートヴィルの偉業が思い出される。しかしブーヴは人並みの信仰心は持っていたが、いまさら十字軍をやるつもりはなかった。

すでに聖地はイングランド王の第6回十字軍が回復していた。だからこの遠征はどちらかといえば、仮想敵ビザンツの背後に港を確保するためのものだった。

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娘婿である西方皇帝ゴットフリート、義兄であり友であるラテン皇帝レーモン2世、テンプル騎士団が軍を送ってくれた。
 
主旨はともかく、陣容だけは立派すぎるほど立派な十字軍である。人々はこれを『最後の十字軍』と呼んだ。「もうこのような光景は見られることはないだろう」とも噂された。

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 皇帝は騎士の城へ行った そこで罠にかかった
 騎士らは血と砂塵にまみれた 太陽も顔をそむけた

シリアではいくつもの苛烈な戦闘が繰り広げられた。
1395年10月、かつての十字軍要塞クラック・デ・シュヴァリエで行われた包囲戦の物語は今でも歌い継がれている。

包囲され危機に陥ったゴットフリート帝を救うため、テンプル騎士団長ウィラヤーとブーヴの武官長アンドレは重装騎士隊を率いて荒れ地を突破した。そして包囲軍を蹂躙し、みごと皇帝を救出した。
 
アンティオキア大守軍はこの戦いで壊滅し、以後勢力を回復することはなかった。

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こうして1395年の暮れ、3年の戦役を経てアンティオキアは陥落した。

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ブーヴは多くの領地をアンティオキア公領として得た。さすがは世界に5つしかない総主教座都市だ。王領直轄地は10領が管理できる上限だったが、都市・修道院を合わせて22もの領地を抱えることになった。

もはやノルマン系にこだわってはいられない。ド=リューカ家を初めとするノルマンの旧家、ギリシア系のサレルノ・オートヴィル家、フランス系のフランドル家などから次男三男をウトラメールへ呼んできて、男爵に任じる作業が続いた。

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 ブーヴの武官長アンドレ・ファン=フラーンデレンは
 報奨として決戦の地アルカ伯領を与えられた
 
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 クラック・デ・シュヴァリエはテンプル騎士団に献上された
 十字軍の時代も終わりに近づいたが、彼らは黙々と戦い続ける

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