Unhistory Channel 152 - パラドゲー記録

Paradox Interactive, Crusaderkings2, AAR


1257年夏、教皇ホノリウス3世は失意のうちに崩御した。
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ホノリウス3世の治世は常に暗い影に覆われていた。彼の思い描いたフランドル家による対皇帝同盟は実現しなかった。そしてキリスト教徒が仲違いをしているあいだに、異教徒がローマの鼻先にまで攻めてきた。

十字軍の呼びかけに応じたカトリックの大国はひとつもなかった。神聖ローマ帝国はもちろん、イングランドも、フランスも、ラテン帝国さえ教皇の檄文を黙殺した。

仮に十字軍が結成されていたとしても、あの異教徒の大軍に立ち向かうすべはなかったかもしれない。だがそういう問題ではないのだ。諸国が十字の旗のもとに援軍を送ってくれる、そのこと自体が現地で戦う者たちに勇気を与える。
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パレスティナの十字軍諸領の崩壊といい、ホノリウス3世の任期中はカトリック勢力の退潮が目立った。しかしフレリー・ドートヴィルはこの教皇を敬愛していたので、その死を知って悲しんだ。

改宗者たち
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 スンニーに改宗した元シチリア王ジェルジュアン
 4領を有するシャイフとしてスルタン国でも重要な地位にある


翌年、ナポリの旧王ジェルジュアンがマスーフィー朝軍の先鋒としてローマに進軍した。これまで永遠の都ローマにムスリムの軍勢が入ったことはない。イタリア中が大騒ぎになった。
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しかしジェルジュアンの進撃は新教皇エヴァリストゥス2世の軍によって阻まれた。緒戦ではジェルジュアンが押していたのだが、エヴァリストゥス2世は教区から上がる潤沢な資金を使って何度も何度も傭兵隊を編成した。そうして戦勝を重ねて白紙和平に持ち込んだのだった。

若いジェルジュアンがどんな思いで改宗し、異教徒の先鋒を務めたのか……。フレリーの心中は複雑だった。彼の2人の弟、オスウィンとフランクもまたスンニーに改宗していたからだ。

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上の弟オスウィンは改宗したのちスルタンの娘アーイシャを娶っていた。公領密偵頭を務める母アンナによれば、そのアーイシャがフレリーの暗殺を試みているという。
 
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 アンナ・ディ=セラーノの調査報告
 帝国に加入したためフレリーの称号がDukeからDouxに変わっている


アンナは激しく怒っていた。「どうしようもない嫁だ」「いくら異教に改宗したとはいえ、オスウィンは兄弟殺しをたくらむような子ではない」などなど。

少し掘り下げてみたが、協力者もろくにいないお粗末な陰謀だ。たいした脅威ではない。フレリーは怒りに燃える母をなだめるので精一杯だった。

帝国のなかで
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テオドロス2世ラスカリスは良き主君だった。
「新参者のフランク人であろうが、皇帝に仕える以上は正教に改宗させるべきですぞ!」と息まく主教たちを押さえ、オートヴィル家がカトリック信仰を続けることを許した。

皇帝は言った。
「かつて親衛兵を務めたノルドのヴァリャーグたちは、帝都のまんなかで火を焚いて異教の冬至を祝ったではないか。彼らが許されて、このキリスト者たちが許されないということはあるまい」

彼の判断は正しかったといえる。若きノルマンの騎士フレリー・ドートヴィルは、自分をかばってくれた皇帝に死ぬまで忠誠を尽くしたからである。
 
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 オートヴィル家の二方面作戦
 尚書長は帝都コンスタンティノープルで皇帝との関係改善を担当
 宮廷司祭はローマに常駐して教皇との繋がりを保つ

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1259年2月、フレリーは皇帝の許しを得てラテン帝国領アカイアへ出兵した。ラテン帝国は同じ十字軍国家であるテッサロニキ公国との内紛で疲弊しており、皇帝にとっては60年前に失われた帝国領を回復する好機だった。

フレリーにはもっと切羽詰まった事情があった。地図を見れば一目瞭然だが、イタリアにある彼の2領はあまりにもマスーフィー朝に対して脆弱なのだ。もしもの場合に備えて、どうしてもギリシア側に拠点となる領土が必要だった。イオニア海の対岸アカイアなら連絡も容易だし、国力も十分だ。

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戦役は1年で終わり、フレリーは宮廷をアカイアのパトラスへ移した。パトラスは豊かな土地で、産業も盛んだ。ビザンツ貴族らしい身なりを整えられるようになったので、これまで帝都に行くたび肩身の狭い思いをしていた妻プルケリア・ガヴァライナはとても喜んだという。

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一方、イタリアの2領ではアンコナ商人に任せた4都市(在来2、新都市2)が自律的に成長を続け、そこからの税収も安定して入ってくるようになった。ロジェ・ドートヴィルの計画も完全に失敗したわけではなかったのだ。

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1261年春、やっと一息ついたところで母アンナ・ディ=セラーノが死んだ。まったく心配し通しの一生だった。アンナはマスーフィ朝の領土となっていた故郷フォッジアに葬られることを望んだが、フォッジアのシャイフ、フランク・ドートヴィルの尽力によりそれは実現した。

従軍の日々

それからの10年間は皇帝に従って戦地に赴く日々が続いた。
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 セルジューク戦役で初めてアジアの土を踏むフレリーとノルマン騎士たち

1261年、第一次ルム・セルジューク戦役
1264年、ヴェネツィアとのアカイア戦役
1266年、スレイミー朝からのクレタ島奪還戦
1267年、トレビゾンド公国とのアルメニアコン戦役
1266年から1271年まで、第二次ルム・セルジューク戦役

これらの戦役の記録はマンフレド『テオドロス2世伝』に詳しい。
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 フレリーは軍勢を率いて地中海を駆け回った

1269年、コンスタンティノープルに滞在していたフレリーのもとをノルマンディーの巡礼騎士たちが訪れた。彼らの昔話に刺激されたフレリーは年代記を作ることを思いついたらしい。

僧院から修道士が呼ばれ、年代記はギリシア語で記された。タンクレッドからギヨーム3世、王国崩壊、アルビニア、ロジェまでの年代記はこのとき書かれたものである。
(残念ながら、このエピソードについての記録は戦乱で失われた) 

第5回十字軍
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主の1270年10月、マスーフィ朝のスルタン・ヤフヤー3世が崩御した。新スルタンとなった長子のマフタルは地方の掌握に失敗し、名だたる大守たちが次々と反旗を翻した。征服15年目にしてマスーフィー朝はみずから綻びはじめたのである。

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 1270年10月、マスーフィ朝の崩壊? 
 弟たちもそれぞれが仕える大守に従って反乱側に回ったが、
 次男オスウィンはシチリア島の戦闘で囚われの身となった


フレリーは複数の戦域沖に武装商船を派遣して情報を集めた。
これはレコンキスタの好機か、あるいは一過性の内乱か?
判断は難しい。

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 DEUS VULT !

しかし主がそれを望まれた! 1272年の聖霊降臨祭、ついに旧シチリア王領への十字軍が発令されたのだ。教皇マルケルス2世は諸国に教皇使節を派遣し、「すべての自由民男子は十字軍に集え」という勅書を読み上げさせた。

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フレリーはこの日を待っていた。
フランス、ブルターニュ、イングランド、ウェールズから複数の諸侯が名乗りを上げた。そしてチュートン騎士団、ヴェネツィアが脇を固める。カラブリア公フレリーは十字軍2番手の栄誉を担うことになった。

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 十字軍士の称号を得る

十字軍士フレリー・ドートヴィル。
主のため、故郷のため、そしてオートヴィルの名誉のために戦うのだ。かつてアンティオキアのボエモン・ドートヴィルもこの称号を帯びたのか。一族が出した伝説の勇士を思うだけで、底知れない力が涌き上がってくる。

だが問題が起きた。
イタリアの諸港を失った公領にはあまり多くの船がない。これではギリシアで雇ったブルガール傭兵を運ぶことができない。傭船に空きがあるのはヴェネツィアだけだが、はたしてカラブリア公と輸送契約を結んでもらえるものか? オートヴィル家はヴェネツィアにとって常に敵方だったのだ。

しかしヴェネツィア共和国の担当官は言った。
「ノルマンの戦士がたは商人というものを誤解なさっておられるようですな。刃を交わした相手とはいえ、契約は契約です。安心してセレニッシマに兵をお預けください」

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ヴェネツィアは契約を完璧に履行した。こうしてフレリーは計16000の兵力をイタリアへ揚陸し、シチリア、カラブリアを中心に兵力を展開することができた。

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 9月、主力上陸後。戦力回復しやすい傭兵中心の軍編成
 戦費はかさむが赤字幅が意外に小さいのは、ロジェ以来の都市重視政策が資金面で効いているからだ
 マスーフィ朝主力は反乱が続くアフリカに張り付いている


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 1273年10月、主の加護によりレッチェを強攻、これを陥落させる

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1274年春、十字軍は戦術的目標の9割を達成した。

フレリーは単独でレッチェ、タラント、レッジョを落とした。レッチェとタラントはオートヴィル家が代々開発してきた領地だ。ここはどうしても回収しておきたい。単独で占領しておけば、それだけ報奨として与えられる可能性が高くなるはずだ。フレリーは野戦でも複数の勝利を重ねている。戦功に不足はない。

そして、あまり高望みしてはいけないが、フレリーはシチリア王位そのものも期待できる立場にある。なぜなら、オートヴィル家以上にふさわしい王位請求者は存在しないのだから。
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 展開次第ではホーエンシュタウフェン家のシチリア王国旗を廃し
 オートヴィル家のシチリア王国旗(右)に戻す


十字軍の勝利はすでに確定している。あとは教皇マルケルス2世の裁定を待つだけだ。

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 1254年7月7日、アヴェルサの戦い

昇る朝日とともにシチリア王軍は突撃を開始した。
「アレルーヤ! アレルーヤ!」
騎士たちは長剣をふりかぶり、敵の奴隷兵をなぎ倒していく。
国土の半分を占領されてもまだ王軍は士気軒昂だった。

だが異教徒の戦列は厚い。
無数の槍が突き出され、隊列が崩れる。
「ひるむな! 貴様らの忠誠を見せろ!」
先陣をつとめるフレリー・ドートヴィルは面頬を跳ねあげ、
自分よりずっと年上の騎士たちを叱咤した。
 
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稜線の向こう側には新たな敵の援軍が姿を見せている。
この朝日が西の空へ沈むまでに、あまたのキリスト教戦士たちが血の海に横たわるだろう。フレリーは敵兵の頭蓋めがけて剣を撃ち下ろしながら、暗い予感に震えた。

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 神聖ローマ皇帝ジモン・フォン=ヴィッテルスバハ

6年前のこと。
フィリップ・フォン・ホーエンシュタウフェンはすでに亡く、神聖ローマ皇帝位はヴィッテルスバハ家のものとなっていた。フィリップ大帝には男子の孫がいたが、幼年のために継承されなかったのだ。そして皇帝選挙により、バイエルンに陣取るヴィッテルスバハ家が表舞台に躍り出たというわけだ。

そんなこんなで結局、ホーエンシュタウフェン同盟はシチリア王の代替わりを待たずにドイツから解体してしまった。

さて1248年、皇帝ジモンは軍を率いてアルプスを越えた。
目標はカラブリア公領の海港アンコナだった。

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 巨大な神聖ローマ帝国がカラブリアに襲いかかる

カラブリアの摂政アンナは女王に援軍を頼むことにした。
「まるで象とアリの戦争ね。皇帝が請求権を持つアンコナの取得は、正直悪手だったとしか思えない。夫もまったく余計なことをしてくれたものだわ!」

どんどん南へ押し込んでくる皇帝軍。
それに対し、女王に動員されたシチリア王軍は全力で戦った。

しかし血族同盟なき今、ホーエンシュタウフェン家のシチリア王国は弱体だ。激しい戦闘の続くなか、体の変調をきたしていたクリームヒルト女王が崩御。王軍の士気は低下し、これをついて皇帝軍は一気にアンコナ市中へなだれこんだ。
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圧倒的な戦力差。アンコナ港は完膚なきまでに破壊され、領地を奪われて戦争は終わった。同時に、アンコナを拠点に地中海へ雄飛しようという故ロジェ・ドートヴィルの夢も終わった。短い夢だった。

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新しいシチリア王は女王の長子、フランドル家のジェルジュアンと定められていた。 だがまだ彼は10歳だ。しかも相続について議論があり、弟2人に王領地を分けたため、彼の支配する王領はたった4州でしかなかった。

皇帝との戦いで疲弊し、継承で弱ったシチリア王国。
禿鷲たちがこれを見逃すはずはなかった。

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1251年5月。ナポリ宮廷は絶望的な報告を受け取った。
地中海の対岸、マスーフィー朝のスルタン・ヤフヤーがシチリア王国全土に対するジハードを宣言し、イフリーキーヤから大艦隊を発進させたという。

ナポリはまだ知らなかったが、この時すでにキレナイカのスレイミー朝、モロッコのムワッヒド朝が遠征に加わり、計59000の異教徒軍が南イタリアめざして動き始めていた。
 
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全イタリアの傭兵が招集された。
王国の隅々に使者が飛び、戦える者はみな王軍に加えられた。
摂政アンナは配下の諸侯をコセンツァに集め、こう言った。

「もはやドイツ人もイタリア人もノルマン人もない。
いま私たちの国そのものが崩れようとしているのだ。
力を合わせて異教徒を撃退しよう。主はそれを望まれる!」

「主はそれを望まれる!」

そしてオートヴィル家の3人の男子、フレリー、オスウィン、フランクは人々の前で団結を誓ったのだった。

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戦いは4年続いた。
ヴェネツィアとセルビアだけがシチリア王国のために援軍を送った。
キリスト教軍は終始押され気味で、イフリーキーヤの半月旗のはためく土地が月ごとに増えていった。

そして最後の大反攻を試みたアヴェルサ会戦でキリスト教軍は負けた。壊滅した王軍は二度と立ち直ることはなかった。
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 ただ眺めていることしかできない

1255年2月、シチリア王国は滅んだ。
ロベール・ギスカール、鉄腕ギヨーム、それから名もなきノルマンディーの男たち。彼らが築き上げた地中海の王国は、200年の歴史を経てここに消滅した。

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 1255年、イフリーキーヤのマスーフィー朝は南イタリアを征服
 三つのオートヴィル家(黄文字)はそれぞれ異教徒の支配下に入った

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 マスーフィー朝スルタン、ヤフヤー3世
 優れた君主であり、その宮廷は退廃とは無縁だった

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 フレリー・ドートヴィルはカラブリア公位を剥がされ、
 たった2領を支配するだけのカタンツァロ伯となった

フレリードートヴィルとスルタンの間に交わされた会話は記録に残っていない。ただオートヴィル家が持つカラブリア公位の権利は認められたらしく、この会談のあとフレリーは改めて「カラブリア大守 Emir」を名乗っている。しかし公位剥奪にともない独立した2人の弟は彼の支配を離れたままとなってしまった。

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 マスーフィー朝のカラブリア大守、フレリー

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コセンツァ郊外の猟場。
涼やかに流れる小川のほとりで、オートヴィル家の三兄弟が低い声で話をしている。異教徒に悟られないために猟という名目で集まったのだ。

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 シチリア王国旧領、1255年
 白枠は旧王家フランドル家領土、緑はスルタン直轄領
 シチリア島東北部メッシナは十字軍期間中に当地を占領したセルビア王国が引き続き管理している

 
話題はオートヴィル家の行く末だった。
マスーフィー朝は王権が強く、異教徒に対する称号剥奪をたやすく行うことができる。すでに旧王フランドル家のベネヴェント領がスルタンに召し上げられている。オートヴィル家の領地も同じ道をたどることは目に見えていた。

「こんな話を聞いた。キリスト教徒領主であっても最後の1伯領だけは安堵される。だが戦争や継承で新しい領地を得たなら、すぐにスルタンに召し上げられてしまうだろう」
「つまり異教徒の支配下にある限り、我らの領地は永遠に1伯領のままということか」
「……改宗という選択肢もある」
「僕もそれについて考えていた。改宗すれば王国内で勢力を蓄え、再起を図れる」

弟たちの話を聞いて、フレリーは我慢できずに叫んだ。

「オスウィン、フランク、おまえたちは信仰を捨てようというのか?」
「選択肢があると言っただけだ」
「兄さん、僕らが必死で異教徒と戦っていたとき教皇は何をしてくれた? キリスト教諸国は何をしてくれた? ただ見ていただけじゃないか。スルタンは僕の気に入ったよ。彼のような君主なら仕える価値がある」

フレリーは何も言い返せなかった。
彼も内心そのように感じていたからだ。

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1255年4月、選択の時がやってきた。
「スルタンにカタンツァロ領を召し上げる意向あり」との知らせが伝わってきたのだ。了承すれば大守フレリーの領地はシチリアのジェルジェンティだけとなってしまう。そして先の会話にあったように、1伯領からの復活はほぼ絶望的。

もしこのときフレリーの妻プルケリアが口を挟まなければ、オートヴィル家の歴史は一変していたかもしれない。

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 大守の妃プルケリア・ガヴァライナ
 ビザンツの軍事貴族ガヴァラス家の娘、ロードス島の女領主

「ねえフレリー、コンスタンティノープルの皇帝陛下に臣従願いを出してみてはいかが?」

盲点だった。
もはや誰も覚えてはいなかったが、南イタリアは確かにビザンツの歴史的領土だったのだ。そういえば、ことあるごとにコンスタンティノープルから形式上の『帝国国法変更通知』が届いていたことをフレリーは今更ながら思い出した。

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 ジョスラン・ドートヴィル 元エピロス専制侯
 ヴェネツィアにエピロスを追われ、妻の領地に亡命した

ビザンツには同族のジョスランがいる。
帝都近郊カリポリスに居住し、宮廷事情にも明るい人物だ。
プルケリアはジョスランを仲介役としてビザンツ皇帝に保護を申請した。
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認められるのか? 却下されるのか?
スルタンへの回答を保留したまま、皇帝の返事をひたすら待ち続ける。煉獄で焼かれる時はこのような気分に違いない。

そして返事は来た。

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「オートヴィルの臣従を認める。
以後、カラブリア公領は帝国の保護下に置かれる。
署名:皇帝テオドロス2世ラスカリス

落日の帝国とはいえ、依然ビザンツは強大だ。
さすがにマスーフィー朝も帝国臣下とあっては手を出せない。
「このときの安堵を一生忘れることはない」
後にフレリーはそう語っている。

こうしてフレリー・ドートヴィルはビザンツ皇帝に臣従し、オートヴィル家はイスラーム圏と正教圏に別れて生き延びることになった。


次回、続けてフレリー・ドートヴィル 2

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 1255年、地中海世界 黄枠はビザンツ領
 ヴェネツィア共和国がアドリア海の出口を制覇しつつある
 モンゴル人がカザフ、ペルシア、アラビア半島を支配している
 パレスティナの十字軍諸領は1240年代に消滅、ヨーロッパ人諸侯はイスラームへ改宗した 

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