Unhistory Channel 152 - パラドゲー記録

Paradox Interactive, Crusaderkings2, AAR

主の1231年。
シチリア女王クリームヒルト・フォン=ホーエンシュタウフェンは、夫君ボードワンを連れて領国巡行の途中、サレルノ市に立ち寄った。

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 カンパーニア海岸の町サレルノには
 キリスト教世界最高の技術を誇る医学校があった

『病王』のあだ名で呼ばれるほど体が弱かったクリームヒルトは、祖父ハインリヒ6世帝が劫略したサレルノを復興させ、ときおり訪れては施療を受けることにしていたのだ。

施療院の中庭に入ると、薬用植物の濃厚な香りが鼻を満たした。
中庭には午後の熱気がまだこもっている。
日陰を求めて回廊に足を踏み入れた女王は、そこでレッチェ伯ロジェ・ドートヴィルが待っていることを知った。
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「陛下、よくお越し下さいました。先方もじきに」

ロジェの言葉に女王はうなずく。
女王が長椅子に横たわると、少年たちが駆けより大団扇であおぎはじめる。アラブ人医師たちはよく冷やしたシナモン入りの葡萄酒を持ってくる。

サレルノの夏は暑いが、回廊の内は過ごしやすい。
日陰でゆったりと薬酒を味わううちに、女王の待っていた人物が中庭へ姿をあらわした。

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キナルド家の若き教皇は頭巾をかぶった修道僧の姿をしていた。
ホノリウス3世
教皇庁異端審問官としてイタリア各地を巡回し、『聖ペトロの串刺し人』の異名をとった苛烈な男である。つい先年亡くなった教皇インノケンティウス3世の忠実な後継者として知られていた。

ロジェ・ドートヴィルは進み出て、中庭の中央で二人の君主を引き合わせた。

「それでは始めましょう。ここでの秘密は完全に守られます」


分断作戦
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当時、ホーエンシュタウフェン家はドイツとシチリアを支配し、その血族同盟の兵力はあわせて8万とも10万とも言われていた。同盟はきわめて強固であり、刃向かう者は即座に抹殺されるのが常だった。

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ドイツではフィリップ大帝が健在で、教皇を挑発しつづけていた。
一方のシチリアではフリードリヒが若死にし、その娘クリームヒルト女王はインノケンティウス3世によって破門されていた。

教皇領の南北をはさんだホーエンシュタウフェン家の動きに聖庁はつねに神経を尖らせていたのだった。

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 ロジェにとってクリームヒルト女王は従姉妹にあたる

ところがである。
クリームヒルト女王はラテン帝国皇子であるボードワンと結婚している。女系結婚ではないため、次の代にシチリア王国はラテン皇帝家であるフランドル家のものになる。つまり、ホーエンシュタウフェン血族同盟はそう遠くない将来に終焉を迎えるのだ。

そこを見越して、ホノリウス3世は動いた。
彼は女王の破門取り下げを提案したのである。
そして秘密同盟をも。

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 将来的にフランドル家がラテン帝国とシチリア王国の主となる

クリームヒルト女王は常々こう感じていたに違いない。
「自分の死後、ドイツのホーエンシュタウフェン家が継承戦争を仕掛けてくるかもしれない。子供たちを守らなくては!」

教皇が仕掛けたのは、そんな女王の心理をついたあざやかなドイツ・シチリア分断作戦だった。

仲介役にはレッチェ伯ロジェが選ばれた。
オートヴィル家は自他ともに認める教皇派であると同時に、ロジェは女王の従兄弟でもあったからだ。
教皇はみずから女王に会うことを望んでいた。
そこでロジェは女王のサレルノ巡幸に合わせる形で、この秘密会談を実現させた。

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会談は成功したと伝えられている。
しばらくの間を置いて、ホノリウス3世は約束通り女王の破門を取り消した。

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ロジェは仲介役の労を認められ、カラブリア公号を名乗ることを許された。カラブリアはアプリア公位とともにオートヴィル家伝統の称号だ。一族の喜びはきわめて大きかった。
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 1194年の王国崩壊後、カラブリア公位はホーエンシュタウフェン家が所有
 1219年、北アフリカに入植したドイツ人騎士ベレンガーに公位が下賜される
 1231年、ベレンガーがムスリムに滅ぼされ公位消滅。代わってオートヴィル家がカラブリア公位を再創設する

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 またロジェは女王によって王国宰相、王宮慈善官に任命された

言葉
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 "Essò è!(そこだ!)"
 "Buona spintà, signore!(よい突きですぞ、殿!)"

主の1234年、大規模な馬上槍試合がレッチェで開催された。
新しいカラブリア公は身ごもっていた妃アンナのために戦うと宣言し、イングランド人のウィンザー、フランス人のドンペール、イタリア人のセラーノなど諸国の騎士が公に挑んだ。

会場に飛びかう声援のほとんどはナポリ語だった。オートヴィル家に仕える騎士の半数と、領民のすべてはイタリア人なのだ。

ロジェも宮廷ではほとんどナポリ語でしか話していない。
公妃アンナ・ディ=セラーノはフォッジアのイタリア貴族の娘であるし、そもそも何代も前からオートヴィル家の当主がナポリ語を話せないではお話にならなかったのである。

ロジェはノルマンフランス語を忘れないためにわざわざノルマン騎士を召し出して話をするくらいであったという。

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 オートヴィルはノルマンか、それとももはやイタリア人なのか

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だがロジェ・ドートヴィルの心に迷いはなかったらしい。
1234年7月、ロジェとアンナに長男が誕生した時、その子はフレリーと名付けられた。ノルマン語で「平和なる支配者」を意味する名だ。

ノルマンディーを出て200年、いまだオートヴィル家はノルマンの血を忘れないでいる。


アンコナ

主の1237年5月、クリームヒルト女王は王国内での私戦を禁止した。
王国宰相という立場上協賛せざるを得なかったが、勢力を拡張したいロジェにとってあまり嬉しい知らせではない。

そんな折、教皇ホノリウス3世の使者がレッチェを訪れた。
カラブリア公の助力が必要なのだという。

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 1237年、アンコナ共和国
 近傍のフェラーラはこの後まもなく神聖ローマ帝国に征服された

使者は言う。
「ロマーニャの海岸沿いにあるアンコナ共和国は名目上は教皇領である。だが近くにあるフェラーラ共和国と同じく、ほぼ自立している。神聖ローマ帝国と教皇領の緩衝国であるとも言える。
 
ところが最近になって、このアンコナの請求権をホーエンシュタウフェン家が主張し始めた。これはいかにもまずい。アンコナを回収すべしという声が聖庁内で高まった」

だが教皇領にはアンコナを確保するだけの余力がない。そこでフィリップ大帝の機先を制して、教皇派であるオートヴィルが当地を予防占領せよというのである。

ロジェは使者に答えた。
「教皇聖下の仰せのままに。寸土たりと皇帝に渡しはしません」

兵7000、傭兵3000をもって遠征は粛々と進められた。
ロジェ公の父であるシラクサ伯ロジェが援軍2800を送ってくれたことも、アンコナを攻める上で大きな力となった。
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 頼れる父親

その冬、包囲に耐えかねた共和国元老院は降伏を決意し、カラブリア公軍は無傷のアンコナ市に進駐した。敵の海将ラファエロはロジェに市門の鍵を差し出した。
だがロジェはこう言った。

「鍵はとっておかれるがよい。カラブリアはアンコナ共和国の従前の地位を保障する」

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当時、アンコナは活気ある海洋共和国として成長しつつあった。
都市の統治権を商人たちから奪うことで成長中の海外交易を損なってはならないとロジェは考えたのである。

「貴市からは税金を徴収するが、見返りも与えよう。今後カラブリア公領に建設する新都市はすべてアンコナ商人団のものとする。よろしく開発に励むように」

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 アンコナ市長ラファエロ 伯級1都市に加え、男爵級2都市を与えた
 年税97万ソルド(税率35%) 

資金を貯めこみがちな市長に新都市を与え、自力開発させようという試みだ。

調査によると1市長が保持できるのは4都市までらしい。
まずは開発済2+新都市1でバランスを試すことにする。
ロジェの考えたこの仕組みはうまくいくのだろうか?

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 1239年の宮廷顧問団
 密偵頭の公妃アンナなど顧問団のほとんどはイタリア人

アンコナの海将ラファエロは宮廷顧問団にも加わった。
その豊富な経験はカラブリア艦隊の技量を大幅に引き上げたという。

海峡戦争

かつて『ノルマン・ビザンツ戦争』と呼ばれる一連の戦役があった。
世界最大の都市コンスタンティノープルがそこにあるのだ。ならばそれを征服しようとするのがノルマンの男たちというものではないか?

だがロベール・ギスカールも、ロジェ2世も、ギヨーム2世も、みな無残に敗北した。ビザンツ帝国の奥深く侵攻しておきながら、帝国と同盟したヴェネツィア艦隊によっていつも背後を脅かされるのだ。
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 爆発物を投擲するヴェネツィアの重ガレー

ヴェネツィア艦隊は神出鬼没だった。本土からの増援はことごとく海の藻屑となった。征服したはずの海岸はあっという間にビザンツの部隊で埋まった。オートヴィル家にとってヴェネツィアはまさしく鬼門だったのだ。
 
だがそんな時代も終わる。アンコナ艦隊を手に入れたロジェ・ドートヴィルはヴェネツィアの重圧をはねのけ、アドリア海の両岸をわがものにしようと動き出していた。

王国内私戦が不可能になった今、公領は外へ膨張するしかない。エピロス、テッサリア、マケドニア……。その先にはオートヴィルの男たちが目指した帝都コンスタンティノープルがうっすらと見える。

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主の1240年3月、父であるシラクサ伯ロジェが亡くなった。
母アルビニアの計画通り、ロジェはシラクサとジェルジェンティを継承した。

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 1240年のカラブリア公領(白枠)
 ホーエンシュタウフェン家領に匹敵する規模となった

オートヴィル家の直轄領は7州におよび、約1万の兵を保有する大領となった。この兵力をもってすればヴェネツィアのアドリア海要塞を抜けるはずだ。

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アンコナ船をアドリア海に出して情報を収集させたところ、ヴェネツィアの南部領土にほとんど兵はないことがわかった。 本国に主力7900、イストリアに1800が駐屯するのみである。ヴェネツィアは前年ハンガリー王国と戦ってダルマティアのザダル港を喪失しており、陸軍はその敗戦の痛手から立ち直っていなかったのだ。

今こそ好機である。傭兵を5000も雇えば勝てる。
ロジェ公は決断した。
オトラント海峡を押し渡り、要港ドゥラッツォを奪取する。

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1241年1月、カラブリア公軍は海峡対岸に展開し、ドゥラッツォとモドーネの包囲を開始した。これにヴェネツィアは即座に反応、艦隊を使って野戦軍をアンコナに上陸させた。エピロスの防衛は強固な要塞網に頼り、イタリア本土に戦力を集中するという戦術に出たのだ。

カラブリア公軍は包囲を中断してアドリア海を再度渡った。そしてフェラーラ近郊でヴェネツィア軍主力を捕捉、これを殲滅する。 

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 1242年3月11日、フェラーラの会戦
 ノルマン式重歩兵の突撃がヴェネツィアの傭兵たちを潰走させた

こうしてヴェネツィア野戦軍の脅威を取り除いた公軍は、あらためてドゥラッツォ包囲に入った。

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7月、戦線にあるロジェのもとに一通の手紙が届く。
先王フリードリヒに嫁いだ叔母コンスタンスからのものだった。

「シチリア王太后であるコンスタンスから、カラブリア公ロジェへ。
王国ではアフリカのムーア人に対する聖戦の準備が進んでいます。
おまえは王国宰相という重職にあるにもかかわらず、
なにをキリスト教徒相手の私戦にかまけているの?
さっさと帰ってきて準備をなさい」

ロジェはいらいらしながら返事を書いた。

「親愛なる叔母上、わたしも聖なる戦列に馳せ参じたいと思うのですが、まずはこのヴェネツィア戦を終わらせねばなりません。
なに、すぐにでもよい知らせをお伝えできることと思います」

だがロジェは間違っていた。


連鎖する誤算

開戦から4年が過ぎた。

まだドゥラッツォは落ちない。
さすがはヴェネツィアの誇る要塞地帯というべきか。
ロジェの顔にも焦りが濃くなってきた。

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 1245年5月の戦線
 二度、ヴェネツィア軍にドゥラッツォ包囲を破られている
 海峡ではヴェネツィア艦隊59隻が新たな部隊を上陸させようとしている
 シチリア王の十字軍(灰)はキレナイカへ展開中
 ラテン帝国領コンスタンティノープルは1244年ビザンツが奪還した

しかも1245年春、シチリア王国のキレナイカ聖戦が始まった。王国宰相であるロジェは兵を率いてキレナイカへ転進しなくてはならない。ドゥラッツォ包囲部隊を海将ラファエロに託し、「かならず落とせ」と言い残してロジェは南へ旅立った。

しかし物事が一度悪い方に振れはじめると、つくづく最悪まで振れてしまうのが世の中の恐ろしさである。

1246年1月、ひとつの知らせがレッチェ宮廷を恐慌に陥れた。

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 「ロジェ公、キレナイカ戦線で負傷!」

ロジェは土民の槍に引きずられて落馬し、昏睡したまま意識が戻らないという。帰国はおろか戦陣から動かすこともできない。

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緊迫する空気のなか、公妃アンナ・ディ=セラーノが摂政についた。アンナは顧問団を呼んで状況の把握につとめた。そしてある重大な事実が発覚したとき、彼女は卒倒しそうになった。

「公領が分割継承になっている!」 

説明を要する。
1231年、ロジェ・ドートヴィルはレッチェ伯からカラブリア公に昇格した。それにともない選挙法と定められていた継承法はいったん御破算、分割継承に戻ってしまう。(1.06までの仕様)

昇格から10年を経た1241年に法改正可能になるが、そこで始まったのが1240年からのヴェネツィア戦争だ。戦争中は継承法を変更できないため、1246年現在まで分割継承のままで来てしまったということらしい。

ロジェにはフレリー、オスウィン、フランクの3男子がある。
つまり今のままでは公領は三つに分割されてしまうのだ。
すぐに戦争を終え、法改正をしなくてはいけない。

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キレナイカの悲報から間もない1246年1月29日、ドゥラッツォ近郊でカラブリア・ヴェネツィア両軍による決戦が行われた。

ヴェネツィアは財力にものを言わせて新手の傭兵隊を補充。兵12000の大部隊をそろえた敵軍に、カラブリアの戦列は最初の射撃戦で崩壊した。

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3月、摂政アンナはヴェネツィアのドージェ・ヴァシアーノに使者を送り、屈辱の白紙和平を乞うた。6年を費やした戦役はすべて無駄に終わった。

「以後、これに懲りて他国の正当な持ち物に食指を伸ばさぬことですな」

アンナは黙って耐えるしかなかった。
やはりヴェネツィア共和国はオートヴィル家の鬼門なのか。
「歴史は繰り返す」とは考えたくないが、その思いがこみあげてくるのを押さえられない。

だがまだ危機は終わっていない。
和平後、アンナはさっそく継承法の変更を試みる。
しかし摂政という立場がそれを難しくしていた。
特にドイツ人司教、ドイツ人市長たちが法改正を拒む。

「摂政ごときが法を変えるなど言語同断」
「オートヴィル家の弱体化につながる? むしろ君主権力の適正化ではないですかな」

40年におよぶシチリア王国のホーエンシュタウフェン支配は強力だった。都市の市長や司教にはその時代にドイツから派遣されてきた者が多い。当然彼らは皇帝派(ギベリン)であり、教皇派(ゲルフ)のオートヴィル家との関係は常に緊張をはらんだものだったのである。

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 ドイツ人家臣の反対に加え、
 摂政による法改正そのものが不可能であることが判明
 まさに痛恨の一撃 

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1ヶ月後、ロジェはキレナイカの地で死んだ。40歳だった。亡骸はオリーブ油に浸けて本国へ運ばれ、しめやかに葬儀が行われた。

そして、何もできないままカラブリア公領は分割された。

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 1246年、分割されたカラブリア公領
 カラブリア公フレリー(白、アンナ後見)2伯領
 レッチェ伯オスウィン(黄、ドイツ人市長エーリヒ後見)3伯領
 フォッジア伯フランク(青、ドイツ人司教ルートヴィヒ後見)2伯領

喪服をまとったアンナは平静を保っているように見えた。
だがその心には戦慄と不安が渦巻いている。

「どうすればいい? わたしが手塩にかけて育ててきた子供たちと、国の半分以上がドイツ人の手に渡ってしまうなんて。
……わかっている。どうすればいいのか、わかっている。だがその手段だけは絶対にとりたくない!」

アンナは跪いてしばらく主に祈りを捧げていたが、やがて思いを決したようにきっぱりと顔を上げ、礼拝堂から出ていった。


燃えさかる都の夢を見ていた。
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皇帝の兵士たちは家々に火をつけ、食糧を奪い、
逃げまどう民の背中に槍を突き立てた。

炎上する宮殿の中で、死んだ父と兄が待っていた。
二人は剣を差し出して言った。

 「おまえは今までどこに隠れていたのか?
  剣を取れ、アルビニア。おまえの王国を取り戻せ」

そしていつもアルビニアはそこで目覚めるのだった。

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主の1204年、12月。
教皇インノケンティウス3世号令のもと第4回十字軍が行われ、
ラテン帝国が樹立された記念すべき年の暮れ。

アルビニアはイタリア半島の先にあるレッチェに帰ってきた。

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 アルビニア・ドートヴィル 元シチリア王女

ずっとドイツの城に囚われていたのだ。
陽光あふれるアプリアの風景を覚えていなくても無理はなかった。
そう、あのオートヴィル家の落日から数えてもう10年になる。

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オートヴィル家は北仏ノルマンディーの出である。
放浪騎士ロベール・ギスカールとその仲間たちが南イタリアを征服して以来、この地のイタリア人、ギリシア人、ムスリムを統べてきた誇り高きノルマン王家だ。

先のシチリア王タンクレードは勇敢な戦士だった。
シチリアを侵略する神聖ローマ皇帝と戦い、国を守った。
だがその死後、ふたたび皇帝が攻めてきてノルマン人たちは負けた。

皇帝軍はシチリアの王都パレルモを蹂躙した。
アルビニアの兄ギヨームは皇帝ハインリヒ6世の命令によって目を潰され、去勢され、不具者にされたあげく獄死した。そして父タンクレードの遺骸は墓から引きずり出され、首を落とされた。皇帝はオートヴィルの名誉を徹底的に踏みにじったのち、シチリア王冠を戴冠した。

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王女アルビニアは姉妹とともにドイツの城に囚われた。
しかし教皇インノケンティウス3世の骨折りもあって、16歳になると解放され、一族ゆかりの地レッチェに帰ることになった。

当時、皇帝と教皇は熾烈な権力闘争を繰り広げていた。ドイツとイタリアを支配する皇帝の勢力を削ぐために送りこまれた教皇の駒。それがアルビニア・ドートヴィルだったのだ。

ホーエンシュタウフェン家はしぶしぶ教皇の提案を受け入れた。
旧支配者オートヴィルへの寛大な扱いを示すという名目で、旧領の一部がアルビニアに安堵された。

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レッチェ。タラント。たった2つの伯領。
ノルマンディーからやってきた祖先たちのように、アルビニアはまたここから始めなければいけない。

謁見

「レッチェおよびタラント女伯、アルビニア・ドートヴィル!」

ナポリのカプアーノ宮殿、謁見の間。
触れ役が高らかに声をあげ、王の前にアルビニアを呼び出した。
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 「レッチェの忠勤を期待する」


わずか10歳のシチリア王。
アルビニアの大叔母コンスタンス・ドートヴィルとハインリヒ6世帝の息子だ。後見人であるインノケンティウス3世の裁定により、ドイツ王冠は叔父フィリップに、シチリア王冠はフリードリヒにと分割された。

フリードリヒは両手で剣を持ち、臣従礼をとりおこなう。
アルビニアは黙って頭を垂れている。
だがその拳は固く握られていた。
この少年は王位簒奪者であり、敵であり、血族の名誉をかけて滅ぼすべきホーエンシュタウフェンなのだ。

王に忠誠を誓うのはレッチェ女伯として当然の責務だ。
だがアルビニアは心の奥で決意していた。
ドイツ人を放逐し、自分の王国を取り戻すことを。

足場を固める
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君主が第一になすべき事は自らの婚姻である。
アルビニアは伴侶として遠縁のシラクサ伯ロジェ・ドートヴィルを選んだ。ロジェは虐殺をまぬがれた数少ないオートヴィルの男子である。もちろん、アルビニアはこの結婚によってオートヴィル家の領地を統合するつもりなのだ。
 
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 白枠で囲まれた領土がアルビニアとロジェの息子のものとなる

また姉メダニアをエピロス専制侯ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスのもとへ嫁がせた。ミカエル1世はラテン帝国やヴェネツィアとの戦いに助力を必要としていたので、アルビニアはその後たびたびオトラント海峡を越えて軍を送った。そのかわりミカエル1世はオートヴィル家による専制侯領の継承を認めた。

最後に妹コンスタンスを主君であるシチリア王フリードリヒと婚約させ、万が一の事態、すなわちホーエンシュタウフェン家によるオートヴィル家放逐の危機に備えた。

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主の1205年、春。
不発に終わった第4回十字軍のやり直しを教皇が命じ、諸国の兵が続々とパレスティナに渡っていった頃、アルビニアは元気な初子を産んだ。初子は父にちなんで小ロジェと名付けられた。

オートヴィル家の将来を担う男子の誕生にアルビニアとロジェは手に手をとって喜びあった。

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主の1209年、7月。
アルビニアは隣国の独立伯領カタンツァロに軍を送った。
戦は2年続いたが、夫ロジェの援軍3000のおかげでカタンツァロは落ちた。アルビニアの直轄領は3つとなった。

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同じ頃パレスティナでは、再編成された第4回十字軍がイェルサレムの奪還に成功し、教皇インノケンティウス3世の勢威はいやが上にも高まった。
 
しかしアルビニアには十字軍に参加するような余裕はなかった。
彼女の目はイタリアに向けられていたのである。

挑戦の開始

主の1219年、秋。
妹コンスタンスがフリードリヒ王のもとへ輿入れして8年が経っていた。アルビニアがナポリのカプアーノ宮に呼ばれた時、その小さな事件は起きた。

「レッチェは何か望みがあるか。申してみよ」

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アルビニアは若いフリードリヒ王を目の前にして黙っていたが、しばらくしてこう言った。

「オートヴィルの伝統ある称号、アプリアおよびカラブリア公位ならば、そろそろ返していただいてもよいかと存じます。あれはよくあるように他人から奪ったものではなく、私たちオートヴィルが手ずから打ち立てた名誉ある国の名ですので」

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その言い方が気に障ったのか、王は激しく怒って席を立った。

アルビニアはなぜ王を怒らせるようなことを言ったのだろうか。
「教皇派の立場を明確にした」「感情の昂り」など歴史家の見解は一致していないが、このとき初めてアルビニアが「王権への挑戦を公式に宣言した」という見方が有力である。

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主の1222年、3月。
フリードリヒ王は28歳という若さで亡くなり、その長女クリームヒルト・フォン・ホーエンシュタウフェンがシチリア女王に即位した。クリームヒルトはまだ幼かったため、ドイツ騎士エンゲルブレヒトが摂政についた。

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同日、エンゲルブレヒトは王国の再編成を宣言。
女王の二人の妹をシチリア女公とカプア女伯にそれぞれ据え、みずからはアプリア公を名乗った。

オートヴィル伝統の公位がどこの馬の骨とも知れぬドイツ人のものに! しかもレッチェ女伯アルビニア・ドートヴィルは王の直臣だったのに、これからはこの騎士ふぜいの配下ということになってしまった。

この事件は誇り高いアルビニアの感情を大いに害したらしい。

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『このたび、ナポリにて宴を催す。諸侯はこぞって参加するように。摂政エンゲルブレヒト』
「否、否! ナポリへなど行くものか」

アルビニアはナポリでの大宴会の誘いに応じなかった。その代わりと言わんばかりに、エンゲルブレヒトが所有するバリ領への請求権を捏造し、これを力ずくで奪取した。

これは家臣同士の私的な戦いだ。誰にも文句は言わせない。女王ですらこの手の戦を止めることはできない。中世の華、『私戦』である。

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 1225年、バリ戦争に勝利し王の直臣に戻る
 エンゲルブレヒトは北アフリカにも領土があり、腹立たしいことにドイツ人のアプリア公家は存続している

「さすがノルマンの女は猛々しい。一族の敵には容赦なく噛みつく」と人々は噂した。

クリームヒルト女王はこの事態を憂い、さまざま手を尽くした。だがアルビニアの背後には教皇インノケンティウス3世がついていることもあり、オートヴィル家の横暴を止めることはできなかった。

そしてノルマンの軍勢は返す刀で北へ向かう。
狙われたのは防備の薄いセラーニ家のフォッジア独立伯領だ。ほとんど抵抗はなく、アルビニアはあっという間に5つ目の直轄領を領地に加えた。

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 1228年のオートヴィル家領地(白枠)
 依然ホーエンシュタウフェン家(ピンクの文字)が領土の過半を有しているが、オートヴィル家もかなり追いついてきた
 一方、エピロスを継いだ甥ジョスラン・ドートヴィルは隣国に領土を奪われてしまっている

天使の降り立つ地

アルビニアは1人の息子と4人の娘を産み育てた。
そして手すきの時にはよく領地を巡察した。

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新たに得たフォッジア領には聖地モンテガルガノがある。
 
北仏のモンサンミシェルと同じく大天使ミカエルが顕現する地と言われ、ここを目指してオートヴィル家の祖先はノルマンディーから巡礼にやってきたのだ。ノルマン人たちはそのままイタリアに居着き、そして傭兵として活躍を始めることになる。

ここがなければオートヴィル家の歴史は始まらなかった。
そして自分もここにはいなかった。
アルビニアは無数の祖先たちに想いを馳せ、石畳の上で祈り続けた。

巡礼から帰るとアルビニアはひどい風邪をひいた。
そして頭痛と寒気が治まらず、まだ40歳だというのに体の節々の痛みを訴えた。サレルノから来た医者は薬湯と湿布を処方したが、彼女の容態は日に日に重くなるばかりだった。

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そしてついに主の1230年1月、アルビニア・ドートヴィルは息を引き取った。

夫ロジェに子供たちのことを何度も頼み、アプリア公位とカラブリア公位を回復できなかったことを悔やみながら死んだ。レッチェ伯位は息子の小ロジェに引き継がれた。

囚われの身から国を起こし、3つの領地を勝ち取ったノルマンの王女。アルビニア・ドートヴィルの亡骸は今もモンテガルガノに葬られている。


次回、二代目『ロジェ3世ドートヴィル』

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