アルヴィトのことを聞きたいのだね?
あれは正直な男だった。心が広く、信仰に篤かった。異教徒にしてはな。おっと、口が滑った。
彼はあまり治世が長くなかったので、この話も短い。
メリダ伯ユスフ・アル・クンキ
強力な民衆反乱指導者だった
わしはそれほど名のある家のものではない。
わしの家はバダホスで代々農園主をやっていた。フェルナン・マヌエレスがコルドバの都を占領し、キリスト教徒どもの支配が始まってから、わしらは互いに通じ合い反乱を計画した。反乱は大規模で、およそ7州のムスリムが同時に蜂起した。わしは指導者として戦い、そして負けた。
牢にはしばらくいたかな。
フェルナンが死に、代替わりしてアルヴィトがポルトゥカーレ公になったことは牢の中で聞いたよ。心の中で快哉を叫んだものだ。
アルヴィト・フェルナネス・ヴィマラネス
1253年、47歳で公領を継承
ある日、アルヴィトがわしの牢を訪れて言った。
「わが騎士として仕える気はないか?」
囚われの生活に倦んでいたので、牢から出してもらえるなら騎士でもなんでもやると言った。だが条件があった。キリスト教への改宗だ。知っての通り、アッラーに対する信仰を棄てた者は死をもって償うとされている。
わしは悩んだが、改宗しなければ牢を出ることはなく、ここで腐り果てるさだめと知ったのでこれに同意した。こうしてわしは棄教者となった。だがわしの心はつねにクルアーンとともにあったし、今でもそうだ。
Popular Opinion+50という強力なパーク
アルヴィトは魔法を持っていた。
「魔法?」と思うだろう。だがあれは魔法だった。とにかく民に人気があったのだ。土地をよく見回り、工事を監督し、人々の声をよく聞いた。それで民は彼を愛した。ムスリムもキリスト教徒もだ。わしもその例外ではない。彼には不思議な力があった。
即位後、突然反乱がおさまった
コルドバでは-50くらいあったPopular Opinionが+3に
反乱を計画しているのはたった2州だけとなった
フェルナンに対してあれほど反乱を繰り返したアルアンダルスのムスリムたちは、アルヴィトに対してはしぶしぶ従った。これを魔法と言わずしてなんというのか。
1256年、セビーリャ進軍
ムハンマド朝に追い討ちをかける
しばらくしてアルヴィトから召集がかかり、わしは軍勢を率いてセビーリャへ向かった。
敵方の王ムヤヒド・イブン・ガルシヤは合戦で負けるとトレドへ逃げ出し、現地のムスリムを落胆させた。あの強大なムハンマド朝の裔がこのざまか……。一方わしらは堂々とセビーリャに入城し、勝利の宴をひらいた。
あれは最良のときだったな。
わしは褒賞としてメリダ伯領をもらい、伯になった。だがメリダはムスリムが多く、棄教者に治められることをよしとしなかった。それでわしは一言ではいえない苦労をしたのだが、これはまた別の話だ。
1257年、ポルトゥカーレ公領はセビーリャを併合
主君アルフォンス6世が第一称号の名乗りを変えたのでレオン王国からカスティーリャ王国となっている
レオン公セバスティアン・ムニェス・ベニゴメスはカスティーリャ王に忠誠を誓い、カスティーリャは見かけ上統合された
だがアルヴィトはセビーリャ併合と同時にさらなる異教州を抱えこむことになった。アルヴィトの治世のうちは彼の人気があるからいいが、次の代にむけて方策を考えねばならない。
そこでアルヴィトはまた牢を訪れることになった。
彼は2人のムスリムを選び、これを伯に任じた。ただ、わしがメリダで苦労しているのを見てか、棄教はさせなかった。むしろ、信仰を保証さえした。
マン・アル・イシビーリーは学問にすぐれた男だ。うわさではセビーリャで書記をやっていたらしい。彼はニエブラ伯領を与えられ、さらに家令となった。
ムスリムかつ現地文化
くわえて信仰保証によるPopular Opinion+5が効いている
Popular Opinionは伯領の支配者に対して算出されるらしいので、異教州にムスリム伯をあてるという方策をとった
評議会で活躍するムスリム伯
新征服地を中心にムスリム伯を配置
わしも彼らと同じように信仰を保ったまま伯にしてくれていたら……とは思った。いまさらどうしようもないことだが。
1261年、ヴィゼウ攻略
ガリシアはたった2伯領の小王国と化している
アルヴィトは失敗も犯した。
軍をポルトに召集してガリシア王が持つヴィゼウを攻めたのだが、これがなかなか落ちないのだ。
わしも従軍したのでよく覚えている。
峻険な山岳地帯にきわめて強固な石造りの城塞があり、何度攻め寄せても石を落とされたり燃える油を注がれたりして退かざるを得なかった。
なぜこんな山中にこれほどまでの立派な城塞があるのか腑に落ちなかったが、イングランド王がここを保有していた時期にありあまる金で整備したのではという者もいた。だが真相は不明だ。
城塞には豊富な食料があり、見積もりでは包囲開始から陥落まで6年かかるというのだ! さらに包囲するうちに9000人の軍隊があっというまに損耗し、3000くらいになり包囲を続けられなくなった。
問題は装備にもあった。
アルヴィトのポルトゥカーレ公軍は時代遅れのマンゴネルしか装備しておらず、とうていヴィゼウを落とすことはかなわなかったのだ。わしはすぐに攻城兵器をトレビュシェットに更新するようアルヴィトに言ったが、すぐにそれどころではなくなってしまった。
二つの大きな反乱が同時に起きた。
ひとつはベニゴメス家のカスティーリャ・レオン公セバスティアン・ムニェスの王に対する反乱だ。
セバスティアンは10000の兵を有し、実質的なカスティーリャの支配者だった。そしてついに主君アルフォンソ6世に反旗を翻し、評議会により大きな権力を与えるよう要求したのだ。
アルフォンソ6世は1伯領しか持たず、臣下の要求に対しきわめて弱い立場にあった。
これでは勝てると思うほうがおかしいだろう。
これでは勝てると思うほうがおかしいだろう。
1264年、アルアンダルス大反乱
5700(カスティーリャ王軍)vs34000(反乱軍)
ムスリム伯を任じた州も反乱に参加した理由は不明
もうひとつはムスリムの民衆反乱で、主にポルトゥカーレ公領とベニゴメス家のカスティーリャ公領におけるものだ。メリダ伯領でも反乱が起きたことにはがっくりきた。わしらのいろいろな方策も無駄に終わり、アルヴィトの魔法もここまでだったか……と思った。
だがアルヴィトの反応は素早かった。
ガリシア王と白紙和平し、ヴィゼウ攻めの軍をそのまま南に向けると知らせを送ってきた。その間わしはずっとメリダで持ちこたえていた。
しかしアルヴィトがメリダに到着することはなかった。
彼はグアディアナ河を渡ったあとで熱を出し、そのまま陣中で亡くなってしまったのだ。
1266年アルヴィト死亡
唯一の男子アンスールがポルトゥカーレ公領を継承することになったが、いろいろなことは後回しだった。まずはこの反乱を終わらせなくてはいけなかった。だがもう夜ふけだ。その話は別の者にしてもらうとしよう。
次回、アンスール・アルヴィテス・ヴィマラネス