静かに……。
いまわたしは推敲しているところなのだ。
貞頼は本を書いている
何を書いているかって?
よくぞ聞いてくれた。
この書は題して『釣魚論』。
世の書物では弓馬や連歌、蹴鞠や接待ばかりを論じているが、釣りを論じるものはこれまでなかった。こいつは評判を呼ぶぞ。釣りはいい。仕掛け、待ち、魚との勝負……そこには武家の学ぶべきすべてがある。
ああ、集中が切れてしまった。
書くのはしばらくやめにして、わたしの話でもしよう。
山城国守護、伊勢貞頼
高い管理と学習を誇り、歌人としても知られる
永禄5年、兄の貞雅が死に、わたしは伊勢家の家督を継いだ。兄はわたしを高く買ってくれていたようだが、実際には人より少し得意なことがあるというだけだ。
管領位継承者、貞澄
家督を継いでまずやったことは、継承者の決定だ。
わたしは次の山城国守護には兄の長子貞澄を選んだ。ちなみに彼は潮義姉様(女管領)の子だから、そのうち彼女の管領位を継ぐことが決まっている。
わが主君の畠山殿は押しも押されぬ大大名だが、管領位を持っていない。もしそこで伊勢家が管領位と山城国守護職をともに継承したらどうなるか? うまくいけば畠山殿の支配から独立して公方様の直臣になることができるのではないか。
わが主君の畠山殿は押しも押されぬ大大名だが、管領位を持っていない。もしそこで伊勢家が管領位と山城国守護職をともに継承したらどうなるか? うまくいけば畠山殿の支配から独立して公方様の直臣になることができるのではないか。
山城伊勢家
管領位は王国級なので、貞澄がうまく継承すれば同じ王国級の畠山氏から独立できる?
かつては斯波、細川、畠山の三家のみに許された管領位。
せいぜい政所執事を勤めてきたにすぎない伊勢家には少々荷が重い称号だ。なにより武家の故実に大いに反する。
しかし細川氏から管領位が剥ぎ取られ、足利家の女子に与えられた時点でその権威は失われた。いまとなっては名前だけの役職だが、そういう使い方もできるということだ。
せいぜい政所執事を勤めてきたにすぎない伊勢家には少々荷が重い称号だ。なにより武家の故実に大いに反する。
しかし細川氏から管領位が剥ぎ取られ、足利家の女子に与えられた時点でその権威は失われた。いまとなっては名前だけの役職だが、そういう使い方もできるということだ。
だが世の中そんなにうまくはいかないものだ。
伊勢家中でわたしと同じ意見の者は少なかった。彼らが伊勢家の後継者に誰を選んだと思う?
伊豆の伊勢氏綱の子、光喜だ。
あちらの伊勢家はせっかく切り取った伊豆国を扇谷上杉家に取られてしまい、三河に逃げてきていた。
山城伊勢家(左)と伊豆伊勢家(右)
遠く離れた光喜に家督がわたる予定
遠く離れた光喜に家督がわたる予定
タニストリー継承は複雑怪奇だ
なぜ伊勢家中はこの男を選んだのだろうか?
兄やわたしの息子たちがまだ若かったということはいえるが、それにしても意外であった……。
兄やわたしの息子たちがまだ若かったということはいえるが、それにしても意外であった……。
だがこの伊勢光喜、会ってみるとなかなかの男前だった。これなら伊勢家を負って立つに不足はないと思った。そこで次の代は本家に継承を戻すという約束で、彼をわたしの猶子とし、家督を継がせることにした。まあうまくやってほしいものだな。
将軍家のこと
16代将軍足利稙義 義材の子
執念の復活
相国寺軟禁中に茶の心得を学んだようだ
それから公方様のことがあった。
先の公方、稙義様は弟である満義様によってその座を追われたわけだが、満義様が疱瘡で亡くなられると、意気揚々と御所に戻ってこられた。
わが伊勢家は天文の変で満義方に立って戦ったので、まあはっきり言って気まずい。だがわたしは割り切ることにした。公方様は公方様、伊勢家は黙って忠誠を誓っておればそれでよいのだ。
もちろん畠山殿はいい顔をしなかった。当然だ、自分が追い出した公方にかしずかなくてはならなかったのだから。彼が公方様に伺候するときの顔は見ものだったな。
畠山家のこと
その畠山家は畠山家で大変な時期を迎えていた。
あれは永禄5年のことだったか……。
あれは永禄5年のことだったか……。
河内と大和の国衆のあいだで山出入りがあったのだ。
それを畠山殿が仲裁したのだが、河内側に不満が残った。そこで河内の国衆は境を越えて押妨を繰り返し、しまいには大和守護の岩瀬家直が出てくる騒ぎとなった。
大和・紀伊守護の岩瀬家直
動員兵力7900
伊勢家のライバル
岩瀬家直は紀伊熊野大社の神官堀内氏貞の子だ。先代の畠山薫殿に取り立てられて、紀伊・大和・伊勢の国衆を束ねる守護に成り上がった。
このような先代の恩があったので彼は畠山殿の忠実な臣下だった。しかし、その家直を畠山殿はきつく叱った。一度仲裁した国衆の争論に首を突っ込むなというのだ。だがその叱り方がまずかった。被官たちが見ている前で家直の頰を打ったのだ。
岩瀬家直は齢60にして憤怒の人だ。
いかに主君とはいえ、24も歳下の畠山殿に頰を打たれたことが彼の怒りに火をつけた。その怒りはふつふつと滾る煮油のようであったというぞ。
そこで彼は兵を挙げた。畠山殿の遠い親戚にあたる畠山義敦を奉じて、紀伊と大和の守護所に陣取った。そのまま河内へ進撃して、主君の首をすげかえようというのだ。
永禄の変(1562-1566)
岩瀬氏の紀伊・大和・南伊勢がまるごと畠山昭義の敵方に回った
反乱軍の将、畠山義敦は畠山政長の曽孫
一方、畠山家の現当主昭義は畠山義就の曽孫
かつて政長と義就は畿内をめぐって争いを繰り広げた
今回はその曽孫たちによる因縁の対決
あのとき、わたしはどうすべきだったろう?
わたしには3つの道があった。
1. 主君である畠山昭義にしたがい、岩瀬家直の乱を鎮圧する
わたしはこの道を取らなかった。畠山殿の御恩に報いるにはこの道のほかはなかったのだが……。気が乗らなかったものでな。
2. 主君である畠山昭義に対して独立戦争をしかける
反乱の結果、動員兵力を8900にまで落とした畠山昭義
この好機に独立戦争をしかけ、畠山殿の支配を離れて公方様の直臣になることもできた。だが岩瀬の乱はいつ終わるかわからない。もし乱のほうが早くおさまってしまえば、わたしは一人で畠山殿と戦う羽目になる。それは避けたいのでこの道も取らなかった。
3. 静観する
わたしは結局この反乱を静観した。
その結果、永禄9年にいたって反乱軍が勝った。昭義殿は畠山家の家督を失った。
「伊勢家の静観、ありがたく思うぞ」
新しく畠山殿となった義敦殿は感謝の言葉を述べてくれた。彼が勝てたのはわたしが動かなかったおかげだということをよく分かっていたのだ。この新しい主君とわたしの間柄はけっして悪くなかったが、それ以上のものではなかったな。
一色征伐
1562年の三河周辺
永禄の変を静観していたあいだ、何もしていなかったわけではない。実はわたしはその期間、軍を率いて三河にいた。
三河の国人、松平堅信
安祥松平家松平長親の曽孫
三河国にはかつての伊勢家在国被官が大勢いることはよく知られている。そのうちの一人、額田郡の松平堅信は折にふれて今出川邸に便りをくれた。
「三河を治める一色氏はこれまでになく弱っている。伊勢殿が三河をものにする好機ですぞ」
三河守護、一色国信
丹後一色家の一色義直末裔
この兵力、いったいなにがあったのか
国人らにそっぽをむかれた一色氏は風前のともしびだ。周辺の大名が虎視眈々と三河を狙っている。取られる前に取らなくては!
わたしは公方様の裁許を得たのち今出川衆を動員し、9600の兵をもって三河へと侵攻した。抵抗はまったくなく、一色国信は尾張へ逃亡した。
永禄7年、わたしは三河全域を征服し、勝利した。
こうして四職の筆頭一色氏はあえなく退場となった。
こうして四職の筆頭一色氏はあえなく退場となった。
伊勢家の領国の拡大は公儀の拡大でもある。
なにより三河国にはかつての御料所がたくさんあった。
なにより三河国にはかつての御料所がたくさんあった。
公方稙義様は三河を版図におさめたことを大変喜ばれた。わたしを三河国守護に任じていただき、またすでにお持ちだった三河国内の被官をわたしの配下にするよう取り計らっていただいた。ありがたいことだ。
東海道の要地を押さえていく
伊勢家のもう一人のライバル六角氏は近江と北伊勢を押さえた
こうしてわたしは山城・三河両国を統べる大名となったのだ。
伊勢家にとってこれは大きな進歩だ。
伊勢家のもう一人のライバル六角氏は近江と北伊勢を押さえた
こうしてわたしは山城・三河両国を統べる大名となったのだ。
伊勢家にとってこれは大きな進歩だ。
しかしあらたに加わった三河の国人たちは不満をつのらせているようだ。東海に住む彼らは、我々畿内の人間とは異なった気風を持っている。いろいろともめごとも増えそうだ。三河で頼りになるのは松平堅信くらいか……。
近江守護 六角持義
兵11500という畠山氏に次ぐ大勢力
こうなると、気になってくるのが六角氏だ。
六角氏の領国は山城と三河を結ぶ経路上にある。できれば仲良くしたいものだ。そこで将来を見据えて同盟を結んだ。吉と出るか、凶と出るか。
——夜も更けてきた。思わずつらつらと語りすぎてしまったな。話はこれで終わり。わたしは書の推敲に戻るとしよう。
今ちょうど難所にさしかかっておってな、徹夜で書いておるのだがなかなかうまく書けぬ。
いささか疲れも出てきたが、なに、いくさに比べれば大したことはない。来月にでもこの書は完成をみるだろう。ぜひ楽しみにしていてくれ。
1565年冬、貞頼急死
連日の徹夜執筆は確実に彼の体をむしばんでいたのだ
結局、本が完成することはなかった
伊勢家家督は約束通り、伊豆伊勢家の光喜に渡った次回、光喜が語る