Unhistory Channel 152 - パラドゲー記録

Paradox Interactive, Crusaderkings3, AAR

静かに……。
いまわたしは推敲しているところなのだ。
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 貞頼は本を書いている

何を書いているかって?
よくぞ聞いてくれた。

この書は題して『釣魚論』
世の書物では弓馬や連歌、蹴鞠や接待ばかりを論じているが、釣りを論じるものはこれまでなかった。こいつは評判を呼ぶぞ。釣りはいい。仕掛け、待ち、魚との勝負……そこには武家の学ぶべきすべてがある。

ああ、集中が切れてしまった。
書くのはしばらくやめにして、わたしの話でもしよう。
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 山城国守護、伊勢貞頼
 高い管理と学習を誇り、歌人としても知られる

永禄5年、兄の貞雅が死に、わたしは伊勢家の家督を継いだ。兄はわたしを高く買ってくれていたようだが、実際には人より少し得意なことがあるというだけだ。
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 管領位継承者、貞澄

家督を継いでまずやったことは、継承者の決定だ。
わたしは次の山城国守護には兄の長子貞澄を選んだ。ちなみに彼は潮義姉様(女管領)の子だから、そのうち彼女の管領位を継ぐことが決まっている。

わが主君の畠山殿は押しも押されぬ大大名だが、管領位を持っていない。もしそこで伊勢家が管領位と山城国守護職をともに継承したらどうなるか? うまくいけば畠山殿の支配から独立して公方様の直臣になることができるのではないか。
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 山城伊勢家
 管領位は王国級なので、貞澄がうまく継承すれば同じ王国級の畠山氏から独立できる?

かつては斯波、細川、畠山の三家のみに許された管領位。
せいぜい政所執事を勤めてきたにすぎない伊勢家には少々荷が重い称号だ。なにより武家の故実に大いに反する。

しかし細川氏から管領位が剥ぎ取られ、足利家の女子に与えられた時点でその権威は失われた。いまとなっては名前だけの役職だが、そういう使い方もできるということだ。

だが世の中そんなにうまくはいかないものだ。
伊勢家中でわたしと同じ意見の者は少なかった。彼らが伊勢家の後継者に誰を選んだと思う?
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伊豆の伊勢氏綱の子、光喜だ。
あちらの伊勢家はせっかく切り取った伊豆国を扇谷上杉家に取られてしまい、三河に逃げてきていた。
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 山城伊勢家(左)と伊豆伊勢家(右)
 遠く離れた光喜に家督がわたる予定 
 タニストリー継承は複雑怪奇だ

なぜ伊勢家中はこの男を選んだのだろうか?
兄やわたしの息子たちがまだ若かったということはいえるが、それにしても意外であった……。

だがこの伊勢光喜、会ってみるとなかなかの男前だった。これなら伊勢家を負って立つに不足はないと思った。そこで次の代は本家に継承を戻すという約束で、彼をわたしの猶子とし、家督を継がせることにした。まあうまくやってほしいものだな。

将軍家のこと
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 16代将軍足利稙義 義材の子
 執念の復活
 相国寺軟禁中に茶の心得を学んだようだ

それから公方様のことがあった。
先の公方、稙義様は弟である満義様によってその座を追われたわけだが、満義様が疱瘡で亡くなられると、意気揚々と御所に戻ってこられた。
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わが伊勢家は天文の変で満義方に立って戦ったので、まあはっきり言って気まずい。だがわたしは割り切ることにした。公方様は公方様、伊勢家は黙って忠誠を誓っておればそれでよいのだ。

もちろん畠山殿はいい顔をしなかった。当然だ、自分が追い出した公方にかしずかなくてはならなかったのだから。彼が公方様に伺候するときの顔は見ものだったな。

畠山家のこと
その畠山家は畠山家で大変な時期を迎えていた。
あれは永禄5年のことだったか……。

河内と大和の国衆のあいだで山出入りがあったのだ。
それを畠山殿が仲裁したのだが、河内側に不満が残った。そこで河内の国衆は境を越えて押妨を繰り返し、しまいには大和守護の岩瀬家直が出てくる騒ぎとなった。
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 大和・紀伊守護の岩瀬家直
 動員兵力7900
 伊勢家のライバル

岩瀬家直は紀伊熊野大社の神官堀内氏貞の子だ。先代の畠山薫殿に取り立てられて、紀伊・大和・伊勢の国衆を束ねる守護に成り上がった。

このような先代の恩があったので彼は畠山殿の忠実な臣下だった。しかし、その家直を畠山殿はきつく叱った。一度仲裁した国衆の争論に首を突っ込むなというのだ。だがその叱り方がまずかった。被官たちが見ている前で家直の頰を打ったのだ。

岩瀬家直は齢60にして憤怒の人だ。
いかに主君とはいえ、24も歳下の畠山殿に頰を打たれたことが彼の怒りに火をつけた。その怒りはふつふつと滾る煮油のようであったというぞ。

そこで彼は兵を挙げた。畠山殿の遠い親戚にあたる畠山義敦を奉じて、紀伊と大和の守護所に陣取った。そのまま河内へ進撃して、主君の首をすげかえようというのだ。
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 永禄の変(1562-1566)
 岩瀬氏の紀伊・大和・南伊勢がまるごと畠山昭義の敵方に回った
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 反乱軍の将、畠山義敦は畠山政長の曽孫
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 一方、畠山家の現当主昭義は畠山義就の曽孫
 かつて政長と義就は畿内をめぐって争いを繰り広げた
 今回はその曽孫たちによる因縁の対決

あのとき、わたしはどうすべきだったろう?
わたしには3つの道があった。

1. 主君である畠山昭義にしたがい、岩瀬家直の乱を鎮圧する
わたしはこの道を取らなかった。畠山殿の御恩に報いるにはこの道のほかはなかったのだが……。気が乗らなかったものでな。

2. 主君である畠山昭義に対して独立戦争をしかける
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 反乱の結果、動員兵力を8900にまで落とした畠山昭義

この好機に独立戦争をしかけ、畠山殿の支配を離れて公方様の直臣になることもできた。だが岩瀬の乱はいつ終わるかわからない。もし乱のほうが早くおさまってしまえば、わたしは一人で畠山殿と戦う羽目になる。それは避けたいのでこの道も取らなかった。

3. 静観する
わたしは結局この反乱を静観した。
その結果、永禄9年にいたって反乱軍が勝った。昭義殿は畠山家の家督を失った。
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「伊勢家の静観、ありがたく思うぞ」

新しく畠山殿となった義敦殿は感謝の言葉を述べてくれた。彼が勝てたのはわたしが動かなかったおかげだということをよく分かっていたのだ。この新しい主君とわたしの間柄はけっして悪くなかったが、それ以上のものではなかったな。

一色征伐
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 1562年の三河周辺

永禄の変を静観していたあいだ、何もしていなかったわけではない。実はわたしはその期間、軍を率いて三河にいた。
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 三河の国人、松平堅信
 安祥松平家松平長親の曽孫

三河国にはかつての伊勢家在国被官が大勢いることはよく知られている。そのうちの一人、額田郡の松平堅信は折にふれて今出川邸に便りをくれた。

「三河を治める一色氏はこれまでになく弱っている。伊勢殿が三河をものにする好機ですぞ」
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 三河守護、一色国信
 丹後一色家の一色義直末裔
 この兵力、いったいなにがあったのか

国人らにそっぽをむかれた一色氏は風前のともしびだ。周辺の大名が虎視眈々と三河を狙っている。取られる前に取らなくては!
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わたしは公方様の裁許を得たのち今出川衆を動員し、9600の兵をもって三河へと侵攻した。抵抗はまったくなく、一色国信は尾張へ逃亡した。
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永禄7年、わたしは三河全域を征服し、勝利した。
こうして四職の筆頭一色氏はあえなく退場となった。
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伊勢家の領国の拡大は公儀の拡大でもある。
なにより三河国にはかつての御料所がたくさんあった。
 
公方稙義様は三河を版図におさめたことを大変喜ばれた。わたしを三河国守護に任じていただき、またすでにお持ちだった三河国内の被官をわたしの配下にするよう取り計らっていただいた。ありがたいことだ。
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 東海道の要地を押さえていく
 伊勢家のもう一人のライバル六角氏は近江と北伊勢を押さえた

こうしてわたしは山城・三河両国を統べる大名となったのだ。
伊勢家にとってこれは大きな進歩だ。
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しかしあらたに加わった三河の国人たちは不満をつのらせているようだ。東海に住む彼らは、我々畿内の人間とは異なった気風を持っている。いろいろともめごとも増えそうだ。三河で頼りになるのは松平堅信くらいか……。
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 近江守護 六角持義
 兵11500という畠山氏に次ぐ大勢力

こうなると、気になってくるのが六角氏だ。
六角氏の領国は山城と三河を結ぶ経路上にある。できれば仲良くしたいものだ。そこで将来を見据えて同盟を結んだ。吉と出るか、凶と出るか。
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——夜も更けてきた。思わずつらつらと語りすぎてしまったな。話はこれで終わり。わたしは書の推敲に戻るとしよう。
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今ちょうど難所にさしかかっておってな、徹夜で書いておるのだがなかなかうまく書けぬ。

いささか疲れも出てきたが、なに、いくさに比べれば大したことはない。来月にでもこの書は完成をみるだろう。ぜひ楽しみにしていてくれ。
 
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 1565年冬、貞頼急死
 連日の徹夜執筆は確実に彼の体をむしばんでいたのだ
 結局、本が完成することはなかった
 伊勢家家督は約束通り、伊豆伊勢家の光喜に渡った


 貞雅は16で伊勢家の家督を継いだ
 兵数2900

弟よ。
頼りない俺をよくここまで支えてくれたな。兄の貞義が死んだとき、俺は当主になるつもりはなかった。なぜなら弟よ、おまえのほうがよほど出来がよかったからだ。しかし選ばれたのは俺だった。
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 伊勢家3兄弟のうち長子貞義は家督継承直後に戦死
 伊勢国鈴鹿郡を攻める最中だった
 残された貞雅と貞頼はよく協調して伊勢家を運営した

俺は伊勢家当主のつとめとして武家の故実を学んだ。しかし学べば学ぶほど、故実と現実の差にうちのめされた。この戦乱の世にあって公方様は敬われはするものの、実際には畠山殿の傀儡と化していたからだ。
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 足利家の姫君、潮
 前将軍義材の娘にして現将軍稙義の姉

俺の婚約そのものが故実からみて好ましくないものだった。
公方様の御供衆でしかない伊勢家が、将軍家から妻を迎えるというのはどうみても釣り合いがとれぬ。
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 1523年 足利幕府

しかし一方では、山城国守護として京畿をがっちり抑える伊勢家と将軍家が強い結びつきを得ることは、公儀にとっては望ましいことだった。それで俺は潮姫を娶ることを約し、あらためて公方様に忠誠を誓った。

時代が変わるにつれ人も変わってゆかねばならない。
そのことを俺はよく知っていた。
28
 1528年、大永の土一揆

大永8年、京の都で徳政一揆が起き、いくつもの土倉や酒屋が襲われたことを覚えているか。あの一揆は油を注いだ火のように膨れ上がり、上京も下京も焼き尽くした。俺は急いで被官を招集し、一揆の鎮圧にあたった。
17
 8500という大兵力を抱える薬師寺元一

公儀が一揆で弱ったとみたか、細川管領方の摂津守護代、薬師寺元一が攻めてきたのもこのときだ。今思えば、公儀はきわめて剣呑な状態にあった。
13
 1530年3月28日
 河内国若江の合戦

弟よ。あのとき、おまえがいなければ戦いは負けていた。
軍奉行であるおまえは敵前で果敢に渡河し、薬師寺の軍勢の側面を抜いた。薬師寺勢は総崩れとなって摂津へ逃げ帰った。おまえは公儀を守ったのだ。
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この功に応じて、俺はおまえに鈴鹿郡を与えた。
また山城国の在国被官を機動軍として再編成し、部隊の指揮をおまえに任せた。この軍勢はわが邸宅のある今出川にちなんで『今出川衆』として知られるようになった。

この今出川衆は畠山殿の配下にありながら、公儀を防衛するためだけにたびたび出兵した。そこで都びとからは『山城番衆』と呼ばれることもあった。 
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 「わが蒼玉よ、そなたの美をこの歌で讃えよう」

天文2年、俺は将軍家から潮姫を迎えた。
彼女は若く美しかった。俺はその美に歌を捧げ、歌は京の都に広まった。俺が歌人として知られるようになったのは、このことがきっかけだ。

足利家のごたごた
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天文7年8月、わが主君である畠山盛頼殿が亡くなった。その娘の薫殿が女の身でありながら新しく畠山殿となられた。
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彼女は家督を継ぐとすぐ、近江守護足利満康様に宣戦を布告した。これにはいささか複雑な事情があったな……。
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たしか満康様は堀越公方政知の孫で、父の茶々丸様が一時公方となったために愛宕郡と北近江を相続したものだ。
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 近江守護足利満康の領地(山城国愛宕郡+北近江)
 現将軍稙義は近江国坂田郡に御所を構えている

いまの公方稙義様は満康様の勢力を減じることを望んでいた。薫殿はその意を受けて宣戦した。ちょうど俺が山城国守護であるために、山城国愛宕郡に対する請求を行うことができたというわけだ。
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 1539年、伊勢貞雅の領地
 六角氏がめざわりだ……

戦いは順調に進み、わが今出川衆5700は愛宕郡を占領した。こうして俺は右京左京のすべてを抑え、京の都は名実ともに山城国守護の領するところとなったのだ。

だが、臣下となった愛宕の国人足利政晴から愛宕郡を簒奪することはしなかった。故実を旨とする伊勢家が足利一門に対して礼を失するようなことがあってはならない。弟よ、このことだけはよくよくおまえにも頼んでおくぞ。
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 14代将軍稙義

それからこんなこともあった。公方であられる稙義様のことだ。彼が近江の交通の要地坂田郡佐和山に御所を構え、佐和山御所と呼ばれていたのはよく知られるとおりだ。

京の都ではなく佐和山に御所を置いたのには理由がある。稙義様は北陸と東海への進出を望んでおられた。そのため御所を戦線に近いところへ置かれたのだ。
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天文8年2月、公方稙義様は諸守護に対し、越前の朝倉征伐を行うことを命じた。だがこの征伐には反対論が多かった。なかでも強硬に反対していたのが畠山の薫殿だ。彼女は朝倉家とのあいだに友誼があり、この征伐は避けたいものだったのだ。

うわさではそれだけではないという。公方稙義様は貪欲なところがあり、いくさで得た領地を分配されることなく、すべてを自分のものにされた。畠山殿はこのような公方様のやり口を大変嫌っておられたという。
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 1539年、天文の変

同年11月、畠山殿はついに兵を挙げた。
公方稙義様に変わってその弟満義様を擁立しようというのだ。稙義様には六角殿がつき、満義様には畠山殿がついた。またもや公儀を割る内戦がはじまってしまった。
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俺はよくよく考えた結果、畠山方についた。
兵12000を数える畠山殿が負けるとは考えられなかったし、直上の主君でもある。公方様に歯向かう不義理をいうなら、畠山殿のかつぐ満義様もまたさきの公方義材様の立派なご子息であられる。問題はない。
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 15代将軍満義

天文10年4月、いくさの決着がつき満義様が公方となられた。稙義様は捕らえられ、相国寺の塔頭のひとつに押し込めとなった。その後のことは聞こえてこない。
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 足利義視ー義材流が栄えている
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話は変わるが、南蛮人が鎮西に渡来したのは天文12年のことだったかな。おまえも知っているとおり、綴喜郡に火縄銃の工房を作った。だがまだ部隊を編成できるほど生産は進んでいない。
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 うれしいstewardship+2

同じ頃、俺は山城国検地を行い米の取れ高その他を記録させた。国は民によって立つ。覚えておくことだ。
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検地をするだけではなく、俺は新しい領地を欲していた。目をつけていたのが伊勢国司北畠領だ。俺は鈴鹿に地続きの河曲郡を狙い、名分を得るために古文書を偽造した。
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 河曲郡を奪取!

伊勢国はすでに畠山殿配下の大和国衆に蚕食されている。ここは早い者勝ちだ。そう思ったのだが。
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 1549年、足利幕府

天文18年、公儀はほぼ伊勢国を併呑した。ただしその内実は畠山配下の大和の国衆による押領がほとんどだ。畠山殿は河内、紀伊、大和、伊勢、山城、越中を手中におさめ、公儀における体制を盤石なものとしている。

一方、結局俺は伊勢国では河曲郡しか切り取ることができなかった。無念だ。

女管領
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 貞雅の主君、南畿内の大大名 畠山昭義
 兵力13000はあまりにも強力だ

またこのころ畠山家中に代替わりがあり、薫殿の弟昭義殿が畠山殿となった。礼儀を知り、学問にも明るいなかなかの人物だ。女に興味がないといううわさも聞くが……。俺には関係のないことだ。
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それから潮のことがあった。
天文19年12月、とんでもない知らせが舞い込んできたのを今でもよく覚えている。

公方様が管領細川殿に対していくさをしかけたのだ。そして聞いておどろくな、わが妻である潮(覚えているだろうか、彼女はさきの公方義材様の娘だ)が正当な管領であるという言い分だ。

あれにはあいた口がふさがらなかった。女大大名の次は女管領ときた。故実に反するもはなはだしい。なにより潮本人が呆れかえっていた。

しかし公方様のされることなので、従うほかはない。おまえを京の押さえに置いて、今出川衆6900を率いて俺は出陣した。
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天文20年5月、公儀の軍勢は摂津に侵入した。俺が目指したのは大坂の寺内町だ。ここを落とすだけでもかなりの戦果が見込める。
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 鈴鹿の郡主、弟貞頼
 なにか陰謀を巡らせていたらしい

このことを蒸し返したくはないのだが……。
あのときおまえが京の都で画策していた陰謀については感心せぬな。弟よ、おまえは俺の世継なのだ。そのことをよく覚えていてほしい。つまらぬ陰謀からは距離をおくことだ、いいな。
08
 王国級の管領位を手にいれるが……

翌年いくさは終わり、わが妻である潮は女管領となった。
ただし実権はまったくなく、細川殿から管領位をはぎとったにすぎぬ。要は管領の時代は終わったのだ。いまは戦国、在国によって立つ大大名の時代。すべては蝋燭の火のようにうつろいゆく——。

潮が往ねば、俺の長男貞澄が管領位を継承することになる。しかし山城国守護職はさきに述べたようにおまえのものだ。
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さて、今出川衆の功をもって、畠山殿は伊勢家に守護職を与えてくれた。それも越中1国をぽんと任せてくれたのだ!
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しかし守護職を与えられたのは俺ではなく、まだ2歳の次男貞正だった。できることなら俺自身あるいはおまえに越中をもらいたかったものだが……。畠山殿には畠山殿のお考えがあるのだろう。

これによって、次代の伊勢家は
・山城国守護 伊勢貞頼(おまえだ)
・管領 伊勢貞澄(わが長男)
・越中国守護 伊勢貞正(わが次男)
の3家に分かれることになる。 
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 畠山昭義にべた褒めされる
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楽しみなのは男子だけではない。
わが長女の桐はきわめて賢く育った。彼女は次代公方の盛政様に嫁入りすることが決まっている。彼女は人当たりがよく、よき妻となることだろう。
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 1559年の勢力図
 将軍家や畠山家がいくさを起こすたびに参戦し
 領地を広げるのを助けてきた甲斐があった 

永禄2年には公儀は飛騨と伊勢を確保し、尾張、美濃へと進出した。公儀の支配は復活しつつある。だがそのほとんどが畠山領であることは先に述べたとおりだ。

弟よ、このまま畠山殿に忠誠を尽くすのだ。それが公儀のためでもあり、伊勢家のためでもある。畠山殿の庇護を失えば、たちまち大和の国衆や六角殿が山城国を狙ってくるだろう。ときは戦国、誰も信用ならぬと心得よ。

よき統治を願っておるぞ、弟よ。
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 1562年10月、伊勢貞雅は53歳で死亡
 約束通り、山城国守護職は弟の貞頼へ渡った


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