Unhistory Channel 152 - パラドゲー記録

Paradox Interactive, Crusaderkings2, AAR

<前回までのあらすじ>
大胆なるダグは先代とまったく違って善政をしいたので民に愛された。外征も積極的に行い、ビャルトラ家の領地を飛躍的に増やしていく。
 
ノヴゴロド十字軍
46
ダグは激怒していた。
というのも、兵士の一人から密告を受けたのだ。
13
ダグの従士長であるエストニア人リットが、従士たちを勝手に使って農民を脅し、金をゆすり取っているという。

リットを呼んで聞きただしたところ、確かにやっているとのこと。悪びれもしないリットの様子にダグの怒りはさらに高まったが、彼はリットを罰することなく、従士長につけたままにした。

なぜならーー。
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 1150年、北ルーシ
44
 リューリク家の末裔、ガヴリイル

ダグは2度目のノヴゴロド戦役を計画していたからだ。今回はリューリク家が治めるノヴゴロドの南北2領が標的だ。

エストニア人リットはきわめて有能な指揮官であり、彼を従士長から外すことは考えられない。たとえこの醜聞のあと、また同じことを2回繰り返したとしても。
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主の1151年夏、ダグはテンプル騎士団に聖戦への参加要請をおこなった。騎士団総長イベリン家のルーはこれを承諾。北ルーシにおける2度目の大規模な異教掃討戦が行われることになった。
00
 1151年10月5日 ノヴゴロドの戦い

その年の秋、ビャルトラ家、リューリク家の両軍はノヴゴロドにて激突。凄惨な戦闘ののち、リット率いるキリスト教軍10000が異教軍4300を撃破した。
04
 ノルドの盾の壁はこの時代になっても強力だ
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キリスト教軍は長駆リューリク家の都ヴラディミルまで進撃し、町々を焼き払った。得られた捕虜は数万に達し、それらはみなマジャル商人に売りさばかれたという。
36
 1152年7月 リューリク家に勝利
 異教の大連合を相手にしていたことがわかる
48
この聖戦に勝利した結果、ビャルトラ家はラドガ湖からヴォルホフ川東岸を完全に押さえた。黒海沿岸タンタルキャを追い出され、リフランドの1地方領主として再出発してから50年。ビャルトラ家は北ルーシにおける中規模公国としてみごと復活を遂げたといえる。

カラトラバ騎士となった長男のグズフリズを除き、次男のモーリス、4男のマッツにそれぞれ新獲得の領地が与えられた。公位継承者のヒシングは結婚してから領地を与えるつもりだったので、領地はなしのままだ。それでヒシングは父親をさらに憎んだ。
 
帰正
24
主の1153年8月、ルーシ大公ヴォロダルが死んだ。そしてクンザハル家は大公位から降り、ペレヤスラヴリの公となった。

クンザハル家を継承したのは先の大公の娘ソフィア姫だったが、彼女には目立った同盟先もなく、兵力も脆弱だった。
14
 ダグの祐筆 ウェセンベルのグズムンド

「今が好機。先代ソルド様のときに召し上げられたカレヴァン領を奪回しましょうぞ!」
31
 1153年8月21日の戦線

リフランド軍は大挙してカレヴァンに殺到した。赤子の手をひねるようなものだった。ビャルトラ家はいまや4500人を動員できるだけの大家となっていたからである。こうしてリフランドはカレヴァン領を回収し、みごと12領を数える強力な公国となった。

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さて、いくさを終えてレミセレ城に帰ってきたダグを迎えた男がいた。キエフの総主教ドモトルである。彼は北ルーシ巡察の旅に出ており、たまたまこのカトリック公国の首都に立ち寄ったのだった。

ドモトルはきわめて聡明な聖職者だった。その知恵は大海のよう、その言葉は蜜のよう。ドモトルの説教はダグを完全に魅了した。ダグはドモトルと問答を続けるうち、正教の荘厳にあずかりたいと願うようになっていた。
27 
そういえば息子のヒシングに皇女エウフラシアを迎える条件が『正教への改宗』だったのだが、もう待ってはいられない。さっそくダグはドモトルの司式のもと、帰正の儀式をおこなった。そればかりか全領国に布告を出してラテン式の典礼をギリシア式に改めるように命じた。

領国の人々は驚きあやしんだが、最も衝撃を受けたのはバルト海沿岸の町に駐留していた諸騎士団の人々だ。彼らは庇護者であるリフランド公がラテン典礼を捨てたことを知り、失望と怒りに身を震わせながらリフランドを後にした。

そう、ダグはこのとき気づいていなかったのだが、もはやこれ以後、諸騎士団の援助を乞うことができなくなってしまったのだ。
40
 1159年 宗教地図
 ルーシ、リトアニア、リフランドに正教圏が拡大している
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 1159年、スグロフ・カガン国
 カガンとルーシ大公の安定した統治のもと、ルーシは富み栄えている
 
輿入れ
主の1156年も暮れるころ、ヒシングがダグに話があると言ってきた。

「父上、帝都のヴァリャーグ親衛隊に勤務することをお許し願いたい」
「今なんと言った」
「ヴァリャーグ親衛隊に勤務することをお許し願いたいと申したのです」
04
 婚姻を目前にしてまさかの傭兵志願

「許さんぞ。絶対に許さん! おまえはコムネノス・ドゥーカスの皇女を娶り、わしのあとを継ぐのだ。ヴァリャーグ親衛隊など……。ノルドの誇りだった昔ならともかく、いまや祖国を失ったフランク人とヒスパニア人がひしめいているというではないか!」

ダグは激昂し、ヒシングを輿入れの日までレミセレ城の塔に幽閉するよう命じた。ヒシングはなんともいえないような目をして、引き立てられていった。その後しばらく、ダグはその目を思い出して夜毎にうなされた。
13
主の1158年春、待ちに待ったエウフラシア姫の輿入れがあった。すべての式次第はノルドの伝統ではなく、帝都式に行われた。大量の食物と酒、蜂蜜に菓子、亜麻布や絹が準備された。

領国の人々はこぞって帝都からやってきた花嫁を見に集まった。美しい花嫁だった。「さすがは皇女さまだ、まるで天使のように美しい」と人々はささやきあった。
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 エウフラシア・ドゥーカイナ・コムネナ
 ビャルトラ家もついに皇女を娶るところまできた

だが夫となるべきヒシングの気分はすぐれないようであった。ヒシングは美しい花嫁と目を合わせることもなく指輪や冠を交換すると、沈黙して総主教ドモトルの祝福をうけた。

この婚姻はダグにとって大きな誇りであったようで、そのあと会う人会う人に自分の息子がいかに盛大な式をあげたかを吹聴して回ったという。

そんなダグも夏にいったん体を冷やしたあと急速に老け込み、9月に急死した。
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先代ソルドの汚名をそそぎ、ビャルトラの領地を増やし、皇女を息子の嫁に迎えたダグ。善政をしいたのでその死を人々に惜しまれたという。そうしてヒシングがその後を継いだ。


<前回までのあらすじ>
愚かな当主の手によってビャルトラ家領は混乱の巷に陥った。領地は減り、当主は牢獄に入れられたまま死んだ。次の代は先代の轍は踏まないであろう……。
 
リフランド公ダグ
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今年に入って何度目の雪だろうか。
ダグは新雪を踏みしめながらレミセレ城の中庭を横切った。城の宝物庫へ向かうと、長持を開けさせて皇帝の横顔が刻印されたベザント貨の数を数える。

やらなければいけないことがたくさんある。
隊商への支払い、兵士の徴募、馬のまぐさの購入、それから、それから……。

公になってからもベザント貨の数を数えるのだけはやめられない。富をこの手に感じられる楽しい時間だ。ダグはルーシの公たちのあいだで自分が『ケチな出納人』と呼ばれていることを思い出し、微笑んだ。
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 グズフリズの子ダグ、リフランド公

ダグは大叔父にあたるソルドからリフランド公位を受け取った。物心ついたころにはすでにソルドは大公の牢獄に囚われていたので、二人が会ったことはない。

ダグは領国の統治に長けていた。そこを見込まれて22歳にしてイヴァン大公の宮宰に任じられたほどだ。
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 大公イヴァンとの関係はそこそこ良好
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ダグはリフランド公としても、ルーシ大公の宮宰としても善政をおこなった。その統治のあいだ領国は富み栄えた。
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 ウェセンベルのグズムンド
 ダグの祐筆

「内のことはわたくしが預かり申した。ご心配なく外征におもむかれよ」

たしかに領国はこれまでになく安定している。忠臣グズムンドの進言を入れてダグは軍勢をそろえ、手近な異教徒を征服することにした。
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 混住する諸民族

北ルーシにはさまざまな民族が入り乱れて住んでいる。スラブ人、マジャル人、エストニア人、リトアニア人……。このうちスラブ人だけがまだノルドの古き教えに従い、神々に生け贄を捧げて暮らしていた。

ヴォルホフ川の向かいにはスラブ人の古都であるノヴゴロドがある。少し前まではホルムガルズと呼ばれていた都市だが、もうその名で呼ぶ者は少ない。ダグはここを取る事に決めた。
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主の1132年、ダグは軍勢を率いてノヴゴロドへ進撃。これをわがものとした。

「ヴォルホフの流れよ。静けきイルメンの湖よ。古きルーシの都がいまやビャルトラ家のものとなったのだ」
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 サンティアゴ騎士団長 ポワトゥーのティボー

このいくさではサンティアゴ騎士団の援助を乞うた。
というのも、カラトラバやサンティアゴはヒスパニアを追い出されて各地を放浪していたからだ。このときちょうどバルト海岸にサンティアゴ騎士たちが集まっていたのが幸いだった。

ダグはティボーに厚く礼を言った。
「祖国を奪還する戦いのときはぜひ一言かけてくだされ。ノルド重歩兵を率いて馳せ参じますぞ!」
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 ヒスパニア、フランスの諸騎士団はクート朝に祖国を追われ、他のキリスト教諸国に散っている
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 この後まもなくクート朝は崩壊し、レオ7世教皇によりフランス奪回十字軍が号令された。しかし北辺の公領には関係のないことだ

内政
41
主の1138年、ダグに悩み事が持ち上がった。息子の教育のことだ。

後継者と定めていた長男のグズフリズだが、妻イングリッドの影響でノルド人というよりはマジャル人のように育ってしまったのだ。
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しかもグズフリズは出家して祈りの道を歩みたいと言い出した。こうなっては彼への継承をあきらめるほかはなかった。特別目をかけて育てていた息子だけに、ダグの心は重く沈んだ。
44
驚いたことに、このあとグズフリズはカラトラバ騎士団に入団した。ノヴゴロド戦役のサンティアゴ騎士たちを見て、修道騎士に憧れていたのだと後から聞いた。騎士団を呼ぶのも考えものだ……。
10
さてこうなると後継者を再考しなければならない。
次男モーリスもまたマジャル風に育ち、しかも非嫡出子なので後継者としては弱い。そうすると順番としては3男のヒシングということになる。

領国が増えてきたビャルトラ家においては統治力の重要性が今まで以上に増している。ダグはヒシングを手ずから育て、領国経営を一から教え込むことにした。
16
 統治力+
 いまや6領の直接支配が可能に

主の1140年、ダグのケチぶりはルーシの全土に知れ渡るまでになっていた。彼がそうまでして倹約していたのはなぜだろうか?
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「リフランドに2つめの城を建てるのだ」
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 首都holding レミセレ

もともと宮廷のある州は収入も兵数も大きい。宮廷州に複数の城を持つことで、さらなる収入と兵数の増加を期待できる。

だが、普通の君主が城を持ちすぎるとほかの州を手放さなければならない。多くの蓄財も必要だ。新しい城の建設は、ダグのように統治がたくみな当主にしかできない大事業だった。
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あたらしい城はイクスキラと名付けられた。この城が完成したあかつきには、ダグはあわせて4000の兵を率いることができるようになるだろう。ちょっとした王国並みの動員力である。

02
主の1142年、北ルーシに新たな勢力が登場した。
ときのデンマーク王がドイツ騎士団にオネガ湖南岸を与えたのである。
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ドイツ騎士団は設立されたばかりの騎士修道会で、本部はクリミアにあり、おもに黒海北岸と大平原における対異教戦闘を担当していた。
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しかしデンマーク王に招かれて、デンマークが切り取った北ルーシの統治を任された。そうして一挙に4つもの領地をオネガ湖南岸に得たのである。

リフランドはノヴゴロドでドイツ騎士団領と接することになる。リフランドも異教圏に脅かされているので心強いといえば心強いが、このまま拡張していけば将来の脅威となるのではないか? 北ルーシの情勢は予断を許さない。

ゼムガレ戦争
主の1145年、かねてから請求権を主張していた隣国ゼムガレ領の領主が幼君に変わったのをみはからって、ダグは宣戦を布告した。同じルーシ大公国内の戦争だったが、気にするものはいまい。
58
 1147年1月17日、クルゼメの戦い

リフランド軍は快調に進撃し、ゼムガレを占領。こうしてビャルトラ家はバルト沿岸からノヴゴロドまでの地域をがっちり支配することになった。
40
 イングリアは祐筆のウェセンベル家に、ノヴゴロドはホルミング家に委任
30
この鮮やかな戦勝は各地に知られ、いまやダグは『大胆公』として知られるようになった。同時に『金儲けの達人』というありがたいようなありがたくないような呼び名も得たのである。

主の1150年、ふたたび息子の悩みがダグを襲った。
今度は3男ヒシングのことだ。
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 赤線部をよく読んでいなかった
 
彼は父と同じく大変な野心家になっていた。それはいいのだが、どこでどう育て方を間違えたのか、ヒシングは父親を強く敵視するようになってしまった。ダグは頭を抱えた。
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 成人したヒシング
 『醜い』がついた以外はまずまず
 相続する領国が多いので管理値を増やしていきたい

さてヒシングのために妃を迎えなければならない。
ダグは悩みに悩んだ末、帝国の皇女をお迎えすることにした。

皇女がヴァリャーグの公子に嫁ぐ?
突拍子もない計画に聞こえるかもしれない。
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 コムネノス・ドゥーカス家の皇女 エウフラシア姫

しかしプロコピオス2世皇帝の治世下、正教への改宗を条件とした皇女の降嫁がさかんに行われており、またリフランド公領の規模からいっても不自然な縁組ではなかった。(またビャルトラ家は過去に皇妃を出した家でもあった!)

正教への改宗についても、君主であるスグロフのカガン、直上の君主であるルーシ大公が正教徒である以上、改宗するのが当然のように思われたのである。

こうして降嫁の手はずは整えられ、ビャルトラ家はエウフラシア姫の成人を待つことになった。


この頃、さまざまなものが移り変わり、これまでの慣習がすたれるということがあった。ホルムガルズをノヴゴロドと呼ぶようになったのがそうであるし、またスヴィドヨッドのことをスヴェリエと呼ぶようにもなった。
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ビャルトラ家がリフランドを領するようになってからいつしか100年が過ぎ、リフランドはルーシ大公国の一部とみなされるようになった。時が流れるのは思ったよりも速いものだ。
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ビャルトラ家領ではもはやルーン石碑を建てる者はいなくなった。異教的であるということもあるし、なによりもっと簡単に羊皮紙に文字を記して残すことができるようになったからだ。

かつて家系の誇りをもって建てられたルーン石碑の彩色は薄れ、苔が表面を覆ってゆく……。それはひとつの時代の終わりを物語るかのようだった。


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