1257年夏、教皇ホノリウス3世は失意のうちに崩御した。
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ホノリウス3世の治世は常に暗い影に覆われていた。彼の思い描いたフランドル家による対皇帝同盟は実現しなかった。そしてキリスト教徒が仲違いをしているあいだに、異教徒がローマの鼻先にまで攻めてきた。

十字軍の呼びかけに応じたカトリックの大国はひとつもなかった。神聖ローマ帝国はもちろん、イングランドも、フランスも、ラテン帝国さえ教皇の檄文を黙殺した。

仮に十字軍が結成されていたとしても、あの異教徒の大軍に立ち向かうすべはなかったかもしれない。だがそういう問題ではないのだ。諸国が十字の旗のもとに援軍を送ってくれる、そのこと自体が現地で戦う者たちに勇気を与える。
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パレスティナの十字軍諸領の崩壊といい、ホノリウス3世の任期中はカトリック勢力の退潮が目立った。しかしフレリー・ドートヴィルはこの教皇を敬愛していたので、その死を知って悲しんだ。

改宗者たち
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 スンニーに改宗した元シチリア王ジェルジュアン
 4領を有するシャイフとしてスルタン国でも重要な地位にある


翌年、ナポリの旧王ジェルジュアンがマスーフィー朝軍の先鋒としてローマに進軍した。これまで永遠の都ローマにムスリムの軍勢が入ったことはない。イタリア中が大騒ぎになった。
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しかしジェルジュアンの進撃は新教皇エヴァリストゥス2世の軍によって阻まれた。緒戦ではジェルジュアンが押していたのだが、エヴァリストゥス2世は教区から上がる潤沢な資金を使って何度も何度も傭兵隊を編成した。そうして戦勝を重ねて白紙和平に持ち込んだのだった。

若いジェルジュアンがどんな思いで改宗し、異教徒の先鋒を務めたのか……。フレリーの心中は複雑だった。彼の2人の弟、オスウィンとフランクもまたスンニーに改宗していたからだ。

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上の弟オスウィンは改宗したのちスルタンの娘アーイシャを娶っていた。公領密偵頭を務める母アンナによれば、そのアーイシャがフレリーの暗殺を試みているという。
 
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 アンナ・ディ=セラーノの調査報告
 帝国に加入したためフレリーの称号がDukeからDouxに変わっている


アンナは激しく怒っていた。「どうしようもない嫁だ」「いくら異教に改宗したとはいえ、オスウィンは兄弟殺しをたくらむような子ではない」などなど。

少し掘り下げてみたが、協力者もろくにいないお粗末な陰謀だ。たいした脅威ではない。フレリーは怒りに燃える母をなだめるので精一杯だった。

帝国のなかで
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テオドロス2世ラスカリスは良き主君だった。
「新参者のフランク人であろうが、皇帝に仕える以上は正教に改宗させるべきですぞ!」と息まく主教たちを押さえ、オートヴィル家がカトリック信仰を続けることを許した。

皇帝は言った。
「かつて親衛兵を務めたノルドのヴァリャーグたちは、帝都のまんなかで火を焚いて異教の冬至を祝ったではないか。彼らが許されて、このキリスト者たちが許されないということはあるまい」

彼の判断は正しかったといえる。若きノルマンの騎士フレリー・ドートヴィルは、自分をかばってくれた皇帝に死ぬまで忠誠を尽くしたからである。
 
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 オートヴィル家の二方面作戦
 尚書長は帝都コンスタンティノープルで皇帝との関係改善を担当
 宮廷司祭はローマに常駐して教皇との繋がりを保つ

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1259年2月、フレリーは皇帝の許しを得てラテン帝国領アカイアへ出兵した。ラテン帝国は同じ十字軍国家であるテッサロニキ公国との内紛で疲弊しており、皇帝にとっては60年前に失われた帝国領を回復する好機だった。

フレリーにはもっと切羽詰まった事情があった。地図を見れば一目瞭然だが、イタリアにある彼の2領はあまりにもマスーフィー朝に対して脆弱なのだ。もしもの場合に備えて、どうしてもギリシア側に拠点となる領土が必要だった。イオニア海の対岸アカイアなら連絡も容易だし、国力も十分だ。

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戦役は1年で終わり、フレリーは宮廷をアカイアのパトラスへ移した。パトラスは豊かな土地で、産業も盛んだ。ビザンツ貴族らしい身なりを整えられるようになったので、これまで帝都に行くたび肩身の狭い思いをしていた妻プルケリア・ガヴァライナはとても喜んだという。

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一方、イタリアの2領ではアンコナ商人に任せた4都市(在来2、新都市2)が自律的に成長を続け、そこからの税収も安定して入ってくるようになった。ロジェ・ドートヴィルの計画も完全に失敗したわけではなかったのだ。

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1261年春、やっと一息ついたところで母アンナ・ディ=セラーノが死んだ。まったく心配し通しの一生だった。アンナはマスーフィ朝の領土となっていた故郷フォッジアに葬られることを望んだが、フォッジアのシャイフ、フランク・ドートヴィルの尽力によりそれは実現した。

従軍の日々

それからの10年間は皇帝に従って戦地に赴く日々が続いた。
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 セルジューク戦役で初めてアジアの土を踏むフレリーとノルマン騎士たち

1261年、第一次ルム・セルジューク戦役
1264年、ヴェネツィアとのアカイア戦役
1266年、スレイミー朝からのクレタ島奪還戦
1267年、トレビゾンド公国とのアルメニアコン戦役
1266年から1271年まで、第二次ルム・セルジューク戦役

これらの戦役の記録はマンフレド『テオドロス2世伝』に詳しい。
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 フレリーは軍勢を率いて地中海を駆け回った

1269年、コンスタンティノープルに滞在していたフレリーのもとをノルマンディーの巡礼騎士たちが訪れた。彼らの昔話に刺激されたフレリーは年代記を作ることを思いついたらしい。

僧院から修道士が呼ばれ、年代記はギリシア語で記された。タンクレッドからギヨーム3世、王国崩壊、アルビニア、ロジェまでの年代記はこのとき書かれたものである。
(残念ながら、このエピソードについての記録は戦乱で失われた) 

第5回十字軍
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主の1270年10月、マスーフィ朝のスルタン・ヤフヤー3世が崩御した。新スルタンとなった長子のマフタルは地方の掌握に失敗し、名だたる大守たちが次々と反旗を翻した。征服15年目にしてマスーフィー朝はみずから綻びはじめたのである。

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 1270年10月、マスーフィ朝の崩壊? 
 弟たちもそれぞれが仕える大守に従って反乱側に回ったが、
 次男オスウィンはシチリア島の戦闘で囚われの身となった


フレリーは複数の戦域沖に武装商船を派遣して情報を集めた。
これはレコンキスタの好機か、あるいは一過性の内乱か?
判断は難しい。

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 DEUS VULT !

しかし主がそれを望まれた! 1272年の聖霊降臨祭、ついに旧シチリア王領への十字軍が発令されたのだ。教皇マルケルス2世は諸国に教皇使節を派遣し、「すべての自由民男子は十字軍に集え」という勅書を読み上げさせた。

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フレリーはこの日を待っていた。
フランス、ブルターニュ、イングランド、ウェールズから複数の諸侯が名乗りを上げた。そしてチュートン騎士団、ヴェネツィアが脇を固める。カラブリア公フレリーは十字軍2番手の栄誉を担うことになった。

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 十字軍士の称号を得る

十字軍士フレリー・ドートヴィル。
主のため、故郷のため、そしてオートヴィルの名誉のために戦うのだ。かつてアンティオキアのボエモン・ドートヴィルもこの称号を帯びたのか。一族が出した伝説の勇士を思うだけで、底知れない力が涌き上がってくる。

だが問題が起きた。
イタリアの諸港を失った公領にはあまり多くの船がない。これではギリシアで雇ったブルガール傭兵を運ぶことができない。傭船に空きがあるのはヴェネツィアだけだが、はたしてカラブリア公と輸送契約を結んでもらえるものか? オートヴィル家はヴェネツィアにとって常に敵方だったのだ。

しかしヴェネツィア共和国の担当官は言った。
「ノルマンの戦士がたは商人というものを誤解なさっておられるようですな。刃を交わした相手とはいえ、契約は契約です。安心してセレニッシマに兵をお預けください」

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ヴェネツィアは契約を完璧に履行した。こうしてフレリーは計16000の兵力をイタリアへ揚陸し、シチリア、カラブリアを中心に兵力を展開することができた。

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 9月、主力上陸後。戦力回復しやすい傭兵中心の軍編成
 戦費はかさむが赤字幅が意外に小さいのは、ロジェ以来の都市重視政策が資金面で効いているからだ
 マスーフィ朝主力は反乱が続くアフリカに張り付いている


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 1273年10月、主の加護によりレッチェを強攻、これを陥落させる

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1274年春、十字軍は戦術的目標の9割を達成した。

フレリーは単独でレッチェ、タラント、レッジョを落とした。レッチェとタラントはオートヴィル家が代々開発してきた領地だ。ここはどうしても回収しておきたい。単独で占領しておけば、それだけ報奨として与えられる可能性が高くなるはずだ。フレリーは野戦でも複数の勝利を重ねている。戦功に不足はない。

そして、あまり高望みしてはいけないが、フレリーはシチリア王位そのものも期待できる立場にある。なぜなら、オートヴィル家以上にふさわしい王位請求者は存在しないのだから。
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 展開次第ではホーエンシュタウフェン家のシチリア王国旗を廃し
 オートヴィル家のシチリア王国旗(右)に戻す


十字軍の勝利はすでに確定している。あとは教皇マルケルス2世の裁定を待つだけだ。