戦勝の宴はローマで開かれた。
そしてカラブリア公フレリー・ドートヴィルは唖然としていた。

教皇の裁定はあまりに予想外だった。まっさきに戦地へ駆けつけ奮戦したオートヴィル家に領地は与えられなかった。間違いではない。与えられなかったのだ。ただの1州でさえも。
 
かわりに全領土を得たのはヴェネツィア共和国だった。
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 ドージェ・アンセルモが第5回十字軍の果実を手にした

先の十字軍で創設したラテン帝国が弱体だった反省からか、今回ヴェネツィアは占領地の直接支配を望んだらしい。19年間のムスリム支配に耐えた後でやってきたのは、きわめて強靭な政体を誇る重商共和国だった。

またしても。またしても彼らがオートヴィル家の前に立ちふさがる。
 
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 1274年、ヴェネツィア領シチリア共和国成立
 正直、納得いかない

なぜフレリーは領土を得られなかったのか?
たしかにヴェネツィアも大軍を送り、各地を占領した。だが戦果ということならフレリーも互角以上だったはずだ。王国格のヴェネツィアと公国格のカラブリアの差だろうか? カラブリアが他国の臣下であって、独立勢力でないことが不利に働いた? 理由はいくらでも考えつく。だがそれだけではないように思えた。

いくらカトリックを守り教皇に忠誠を誓い続けてきたとはいえ、今やオートヴィル家は東方帝国の一部だ。南イタリア全土に正教帝国ビザンツの旗が揚がるなど、教皇にとっては受け入れがたい光景だったのかもしれない。

だがどうしてヴェネツィアなのか?
ほかのカトリック諸侯では駄目だったのか?

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 教皇マルケルス2世 ヴェネツィアと手打ちをして
 南イタリアにおける聖庁の利権を確保した

教皇は無謬である。もはや決定は下されてしまったのだ。フレリーは異議を唱えることもせず、無言でローマを立ち去ったという。彼にできることは何もなかった。

「人が認めなくてもあなたの戦いぶりは主が御覧になっています。聖霊のお導きによって、いつかかならず報われますよ」

パトラスに帰り、男泣きに泣く夫をプルケリア・ガヴァライナはこう言って慰めたという。

スルタンの娘

十字軍の結果、マスーフィ朝はイタリアから撤退した。
だが反乱した大守たちとスルタンの戦いはまだ続いている。反乱側についた弟オスウィン・ドートヴィルがスルタンの牢に囚われたことはすでに述べた。

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1277年、スルタン・マフタルの攻撃を受けてオスウィンの最後の領地シラクサが陥落した。オスウィンの妃であったアーイシャ・マスーフィは、オートヴィルの名を持つ娘たちを連れてパトラスに亡命してきた。

アーイシャは先のスルタン、ヤフヤー3世の王女である。
フレリーは威儀を正して弟の家族を迎えた。
「スルターナ、弟はかならず解放されるものと信じております。それまでこのパトラスでゆっくりとお休みください」

だがフレリーは忘れていなかった。
彼女がかつて自分の暗殺を企んでいたことを。

数日もしないうちにアーイシャは子供たちと引き離され、パトラスから遠く離れた山麓の塔に送られた。スルタンの娘に関するオートヴィル家の記録はそこで途絶えている。

アデマール・ドートヴィル

フレリーのもう一人の弟フランクは早死にし、その領地フォッジアは長男アデマール・ドートヴィルが治めていた。だが1278年、スルタン・マフタルがベネヴェント大守領を滅ぼしたため、こちらからもオートヴィル家は追い出されてしまった。

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 アラブ人の母を持つアデマール・ドートヴィル
 どうもオートヴィル家とイベリン家は縁があるらしい


アデマールはオスウィンと違って逃亡に成功し、一族もろともパレスティナのイベリン家の元へ身を寄せた。1243年のイェルサレム王国の滅亡後もイベリン家はアイユーブ朝下で勢力を保ち、イスラームに改宗した元キリスト教徒の集合地となっていたからである。

フレリーは「パトラスへ来ないか。改宗するなら男爵領を与えてもいい」とアデマールに使いを送った。

しかしパレスティナから返事が返ってくることはなかった。まあ、甥っ子が心安く暮らせるのならそれでいい……。

モンゴル人のこと

祖母アルビニア・ドートヴィルの日記にも、東方で勃興したという平たい顔の蛮族のことは記されている。だがその記述はあまり詳しくはない。所詮、彼らは遠隔の地の民であり、オートヴィルの者が刃を交えることはなかったからだ。

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1278年の公現祭の頃である。
チドゥクル・ハーン率いるモンゴル軍がペルシアの向こうから現れ、そのままシリアに進撃を始めた。まさに『イナゴのような』という形容辞がふさわしい大軍であったという。

ビザンツ領シリアも攻撃を受けたため、皇帝テオドロス2世ラスカリスは帝国全地の諸侯を招集。フレリーはギリシア諸侯軍の一員として出撃し、シリアを転戦した。

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 1278年3月1日、ホムスの戦い
 フレリーの部隊はこの戦闘に右翼重歩兵として参加していた

いくつもの激しい戦いが繰り広げられたと伝えられているが、オートヴィル家の年代記はシリア戦役について多くを語っていない。

当主フレリーが五体満足で戦地から帰ってきたこと。
結局ビザンツがシリアを失ったこと。
仇敵だったラテン帝国がビザンツとよく協調して戦ったこと。
太陽を崇める蛮族だったチドゥクル・ハーンが、戦役ののちシーア派に改宗したことが淡々と記されているだけである。

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 キプチャク平原からペルシア、イラク、湾岸がシーアに染まる
 アイユーブ朝旧臣を中心としてスンニーも根強い
 カトリックは十字軍諸侯の勢力下にギリシアを教化したほか
 エジプトとシリアでは有力な信仰であり続けている

公位喪失
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 パトラスを拠点にイタリア反攻計画を着々と進める
 混乱が続く旧マスーフィ大守領を狙い撃ちにし、アプリア、フォッジア、ベネヴェントを回収した

1280年、イタリアで戦陣にあったフレリー・ドートヴィルは新たな怒りに震えることになった。ヴェネツィアのドージェ・アンセルモがフレリーの第一称号『カラブリア公』を簒奪したのだ。

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 オートヴィル伝統の公位をあっさり奪われ、ただの伯に
 妻プルケリアが皇帝からアルメニアコン女公の称号を賜っているため、気をつかって『アルメニアコン公』と呼ばれているのがとても情けない

カラブリア2州のうちカタンツァロはフレリーが所有している。したがってヴェネツィアに対抗して公位を簒奪し返すことは可能だ。だがヴェネツィアは潤沢な資金で何度でも公位を買い戻してくるだろう。こちらにはそんな金はない。つまり、フレリーにはなすすべがなかった。

「あの沼ガエルどもは、どこまで俺の邪魔をする気だ……」

またもヴェネツィアにしてやられ、彼は憤怒のあまり失神しかけたという。これでフレリー・ドートヴィルはただのアカイア伯になってしまった。
 
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 嫁のほうが偉い

後継者

1282年6月、フレリーの長男ロジェ・ドートヴィルが急死した。
そこでロジェの息子ゴーフリドがフレリーの後継者に繰り上がった。しかしゴーフリドが継ぐのは父方のアカイア伯領だけではない。母方のテッサロニキの領地も彼のものになるのだ。

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 フレリーの孫ゴーフリドがこれらすべての領地を相続する
 白枠:父方、オートヴィル家のアカイア伯領
 黄枠:祖母プルケリア・ガヴァライナのロードス領

テッサロニキ公領はラテン帝国の7割を占める大領である。ここをオートヴィル家の領地にできるなら、かのヴェネツィア共和国と正面からぶつかることも可能な兵力が手に入るはずだ。しかし……。

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ゴーフリドは白痴に生まれついた。
ギリシア中の行者を呼んで祈祷を頼んだが、何も変わらなかった。

50歳を前にして初孫が可愛くないわけがない。しかし広大な領地や公位と引き換えに、白痴の後継者を受け入れねばならないとしたらどうだろう?

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フレリーはゴーフリドをあきらめた。
そのかわり次男オーブレーに賭けることにした。まず選挙法継承に切り替え、オーブレーを第一継承者に指名する。そして兄嫁のテッサロニキ公女ロドヴィカと結婚させ、ゴーフリドに代わる孫の誕生を期待したのだ。

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 成人したオーブレー・ドートヴィル
 ノルマンらしい風貌だし、能力も期待できる

オーブレーは酷薄なところのある息子であまりそりは合わなかったが、しょうがない。このやり方ならゴーフリドを継承から外し、かつテッサロニキとアカイアを統合することができる。いくら白痴とはいえ、フレリーは孫を殺したりしたくはなかった。

1286年の四旬節、妻プルケリア・ガヴァライナが死んだ。
若い頃はフレリーと対立することも多かったようだが、彼がビザンツ帝臣となってからは、ノルマン人でカトリックという異質な夫を帝国宮廷でよく支えた。

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 「薔薇よ、ロドスの薔薇よ
 わが手をすりぬけ、暗き淵に消え失せぬ」

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プルケリアの死により、白痴の孫ゴーフリドがロードス領主ならびにアルメニアコン公となった。これは現地の法によるものでいかんともしがたい。実際の施政は母であるテッサロニキ女公ロドヴィカが執ることになる。

翌年の夏、プルケリアに続き、フレリーのよき理解者であったテオドロス2世ラスカリスが崩御した。『使徒皇帝』の名に恥じない偉大な君主だった。ハギア・ソフィア聖堂で行われた荘厳な葬礼にはフレリーも出席した。存亡の危機に手を差し伸べてくれた主君に思いを馳せ、このノルマン人の老公は人目をはばからず号泣したという。

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 ハギア・ソフィア聖堂『皇帝の門』 
 テオドロス2世の遺骸はここを通って堂内に安置された

同日、皇子コンスタンティオスが皇帝に即位。彼の皇后はラテン帝国皇帝の妹ブランシュであり、両帝国の絆はさらに深まった。
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 新皇帝コンスタンティオス3世ラスカリス
 陰謀値が低いので暗殺には気をつけてほしい


舵を切る

1288年6月、フレリーはアブルッツォ州を最後にイタリアのムスリム諸邦の再征服を完了した。ホーエンシュタウフェン朝シチリア王国の崩壊から33年が経っていた。彼はこれまでの苦労を思い、つぶやいた。

「目まぐるしい歳月だった……。オートヴィルがビザンツの尖兵としてイタリアを攻めるなど、わが先祖が聞いたらなんと思うことか」

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 1288年の地中海。同年、半島でのレコンキスタを終了
 テッサロニキ公国はラテン帝国に対して継承戦争中

しかしまだまだ問題は山積していた。
後継者に指名した次男オーブレーに男子が生まれなかったのである。このままではテッサロニキ公領は白痴のゴーフリドに行ってしまう。

そこでフレリーは次の手を打った。
継承予定者を次男オーブレーから三男ギヨームに再度変更。そしてゴーフリドの妹エモニー・ドートヴィルをギヨームに娶らせる。

ギヨームは伯領の連隊長を務めるほどの戦上手に育ち、これならと思わせた。 
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 三男ギヨーム・ドートヴィルと孫娘エモニー
 めまぐるしく代わる継承予定者


だが高齢のフレリーにはもはや時間がない。
同時に彼はロードスに向けて密使を送った。

「ゴーフリドを消せ。しかしテッサロニキに感づかれると面倒だ。
うまく機会をとらえよ」

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まだ8つの初孫を殺そうというのだ。
そうすれば妹のエモニーがロードス領主、アルメニアコン女公を継承できる。同時に彼女はテッサロニキ女公ロドヴィカの第一継承者に繰り上がる。

つまりギヨームとエモニーの子はアカイア、ロードス、テッサロニキを統合し、その上アルメニアコン公、テッサロニキ公の称号を手に入れることができるというわけだ。

何も間違ってはいないはずだ。何も……。

退場

フレリーはざわついた心を抱えて統治を続けた。

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1291年春、スルタンの牢から帰ってきてフレリーの家令をしていた弟オスウィンが、アカイアの農民暴動に巻き込まれて重傷を負った。

ドイツ人の傀儡、イスラームへの改宗、虜囚、妻の失踪と数奇な人生をたどった弟にフレリーはできるだけのことをしてやりたかった。しかしアテナイから名医を呼ぼうとするフレリーを押しとどめ、弟はこう言った。

「司祭を呼んでくれ。キリスト者として死にたい」

そして終油の場で「娘二人はしかるべき貴族に娶らせてやってくれ。あれもオートヴィルの娘だから」と言い残して、オスウィンは死んだ。彼の遺骸はキリスト教徒として葬られ、モンテガルガノの墓所に今でも眠っている。

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 若者と話をするのは楽しいものだ
 騎士ド=リューカの家系はシナリオ開始時からずっとノルマン文化を守っている

楽しい事もあった。
由緒あるノルマン貴族の若者たちが、老いの目立ってきたフレリーのもとを訪れるようになった。昔の話を聞きたがる彼らに、フレリーは目を輝かせて十字軍の思い出を語り、皇帝と鞍を並べて戦ったアナトリアの話をした。

ギリシア側のパトラスに宮廷を移したせいか、このころ家臣のなかに正教へ改宗する者が続出していた。そんな中、若者たちがカトリックを守り続けると約束してくれたこともフレリーには嬉しかった。

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そして1295年の年の暮れ。
黒衣の使者がロードスからやってきた。
降誕祭の2日前だった。

「成功しました」

その一言だけを言って使者はかき消えた。

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 ゴーフリドの妃アンナを仲間に引き入れてからは
 アルメニアコン公暗殺の陰謀は速やかに進行した

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陰謀の達成になんと7年もかかったが、すべては計画通りになった。
 
白痴のゴーフリドはこの世から静かに消えた。そして妹のエモニーはロードス領主、アルメニアコン女公となった。近いうちに息子のギヨームがエモニーを娶り、自分の後を継ぐだろう。

この知らせを聞いてすぐ、フレリーは熱を出して寝込んだ。長年の緊張の糸がほどけたのかもしれない。しかしこの病いはいっこうに治る気配を見せなかった。

翌年の初夏、フレリーはもう寝床から起き上がることができないようになっていた。老いた体の節々を激痛がさいなんだ。彼は手をふって司祭を呼ぶよう命じた。告解が済むと、老いた顔に微笑を浮かべ、そして死んだ。

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