即位記念の槍試合
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主の1372年6月、アプリア。
新シチリア王ブーヴ・ドートヴィルの即位を祝って、レッチェ城外の草地では連日宴が繰り広げられた。

そこには大勢の貴族や司教、ラテン帝国のフランドル皇帝家も顔を見せた。人気を呼んだのは馬上槍試合で、フランス、イタリア、ギリシアからやってきた騎士たちが武勇を競った。

事件はそこで起きた。最初は少年従者同士の口喧嘩だったらしい。だが騒ぎが大きくなり、騎士たちが剣を抜くともういけなかった。

シチリア王ブーヴ・ドートヴィルとアテネ公フェラン・ドートヴィルが現場に駆けつけたのはほぼ同時だった。幾人もの騎士たちが血を流して倒れていた。二人はお互いを睨みつけ、ものも言わずに剣を抜いた。

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 復興オートヴィル朝第2代、ブーヴ・ドートヴィル
 鷹匠として知られる。ノルマン重歩兵戦術を学んだ

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 従兄弟のアテネ公フェラン・ドートヴィル
 決闘の名手。王国戦力の3割を擁するも険悪な関係

なぜこんな事になったのか。
アヴェイスとアデル姉妹の死後、テッサロニキ宮廷とパトラス宮廷はきわめて険悪な関係におちいった。その理由はいくつか挙げることができる。

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まず、ノルマンフランス貴族とギリシア人貴族の対立。
しょせんギリシア人を2級家臣としか見ていないテッサロニキのノルマン人たちに対して、パトラスのギリシア人は自分たちこそがオートヴィル家を支えてきたという反発があった。

それに両宮廷は複雑な領土問題を抱えていた。王領アプリアのバリ領はフェランのものだったし、反対にパトラスの目と鼻の先にあるアンドラヴィダ都市共和国はブーヴが支配していた。
これでは仲がよくなるはずがない。

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 王国法は「男系男子・選挙制」
 選挙制ゆえフェランはリストには復活できるが、
 opinion -50の大ペナルティはそのまま

 
決定的だったのは継承問題だ。
ブーヴには3人の娘がいるが、王国法で規定された継承者は「男系男子」のみ。つまり叔父や従兄弟などの一族の男子から次代の王を選ぶことになる。
アデル・ドートヴィルの息子であるフェランは女系ということで、ほかの候補者とは扱いに差を付けられてしまったのだ。

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激怒したフェランはサレルノ公アンテミオス・ドートヴィルと組んでブーヴに退位を迫ろうとした。
アンテミオスはアヴェイスの息子でブーヴの叔父にあたる。イタリア諸侯のまとめ役であり、ギリシア系オートヴィルのリーダーでもある。内乱になればブーヴが不利な戦いを強いられることは間違いなかった。

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 1372年、ヴェネツィアから独立したエピロス共和国(白)を 
 皇帝アンドレアスは我がものにした
 フェランのアテネ公領(赤)も帝国に呑み込まれるのでは? 

心配の種はほかにもあった。
当時、ビザンツには精強な新皇帝アンドレアス・ラスカリスが登位し、帝国復興を旗印として周辺諸国への遠征を繰り返していた。
 
ヴェネツィア領エピロスのドージェ・アルシーデが本国に対して独立を宣言すると、本国軍より先に5万の大軍を派遣してエピロスを帝国に再統合する構えを見せている。

地図を見ればわかるように、エピロスはイタリアとギリシアをつなぐきわめて重要な地域だ。ブーヴはドージェ・アルシーデの要請に答えて防衛軍を派遣することも考えたが、シチリア王国全体の動員力は4万5千にすぎない。
「参戦してもエピロスを救えるものではない」
そう悟ったブーヴは参戦を取りやめた。そしてエピロスが帝国の紫色に染まっていくのを見ているしかなかった。

「はやくフェランを排除しておかないと、エピロスと同じようにアテネ公領も帝国に併呑されてしまうのではないか」
そんな恐怖がブーヴの中で大きくなりつつあった。その懸念はもっともだった。だが、おそらく恐怖の大きさが彼の判断を鈍らせた。

祝祭の場を血で汚された怒りがあったかもしれない。フェランも挑発的なことを言ったかもしれない。それでも王であるブーヴは自制すべきだった。
しかし彼は剣を抜いた。そしてフェラン・ドートヴィルに斬りかかったのだった。

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アテネ公フェランは決闘の名手として知られている。ブーヴは攻撃を受け流され、やすやすとフェランの反撃をくらった。技量の差はあきらかだった。ブーヴはいくつもの傷を負い、ついには右手と右膝から下を切り飛ばされるという致命傷を受けた。

だが地元の騎士たちが力ずくで双方を引き離し、フェランは捕らえられた。
そしてノルマンディー以来の重臣ド=リューカがその場を収拾し、即位の祝いで王が殺されかけるという不祥事をたくみに覆い隠した。

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 スポレト公ティボー2世・ド=リューカ
 同文化のド=リューカ家はさまざまな局面で頼りになる

「諸卿、この事は内密に願いたい。秘密を漏らした者はオートヴィルの血筋であろうが一族郎党もろとも滅ぼします。よいですな」

フェランはアプリアのバリ領を返上させられた上で沈黙と再服従を誓い、王国諸侯は何事もなかったような顔で領地へと帰っていった。

一方、レッチェ城にかつぎこまれたブーヴはしばらく死線をさまよった。しかし主は彼に恵みを与えたもうた。

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ブーヴは生き延びた。
そればかりか次の春には松葉杖をついて歩けるまでに回復し、政務に復帰した。

しかし顔には鼻筋を横切る醜い傷が残り、好きだった鷹狩りはもう二度とできなくなった。人々は彼を『不具王ブーヴ』と呼び、禁じられた噂話を楽しんだ。

オートヴィルの子供たち
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 14世紀末、オートヴィル家の家系図
 大きく分けてフランス分家、本家、サレルノ家、 タラント家、アテネ(パトラス)家
 このほかビザンツ帝国カリポリス伯オートヴィル家がある

主の1376年、シチリア王妃エレオノーラ・デ=ラルサは4人目の娘フレセンダを産んだ。
(下々の者はブーヴに閨事が可能なのか論じあった)
大変な難産だったという。もう妃は出産の重荷に耐えられる歳ではなくなっていたのだ。ここに至って、ブーヴはもう自分に男子は生まれないものとあきらめた。

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 フランス王国シャロレー伯 小マルコス・ドートヴィル

同じ頃、フランスからの便りがあった。追放された伯父『のろまのマルコス』の息子、小マルコスからの便りだった。
一族の誰もが忘れていた『のろまのマルコス』はフランスでしっかり一家を築いていた。小マルコスはブルゴーニュ公領で武官長を務め、シャロレーなど3領を構えるいっぱしの領主になっていた。

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「息子のラウルもそろそろ縁組の時期だ。ノルマンの血を忘れないよう本家の姫君を娶らせたいと思うが、王の意見はいかがか」

ブーヴは快諾し、歳の合った三女エレンベルガをラウル少年と婚約させることにした。伯父に対する祖母アヴェイスの仕打ちを話に聞いていたので、その償いもあって持参金はたっぷりはずんだ。このように一族は仲良くしたいものだ。

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上の娘の縁組も決めないといけない。次女クラリモンドはスポレト公ド=リューカ家の世継ぎフレリーと婚約させることにした。
昔からのノルマン人家臣も今やほとんどが現地化し、ド=リューカ家のほかは小さな男爵家がいくつか残るくらいだ。ぜひ栄えてノルマンの血を残してほしい。

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 長女のエレアノール姫、なかなかの大志を抱いているらしいが
 ひどい嘘つきに育ってしまって父は心配

四姉妹の長女、勇敢なエレアノールについてはよくよく考える必要があった。
ブーヴはいつかは継承法を女子・女系可能に変更し、エレアノールを女王にするつもりだ。(法改正のためにはフェラン・ドートヴィルなど不満家臣を除く必要がある)

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女王の配偶者には良き若者を選びたい。ブーヴとエレオノーラ王妃は熟考の末、神聖ローマ皇帝の次男ゴットフリート・アスカーニエンを婿養子にもらうことにした。

ビザンツ帝国との対抗上、ブーヴはどうしても強力な同盟相手が欲しかった。それにゴットフリート自身も8歳にして神童の評判があった。このような若者をテッサロニキ宮廷に迎えることができれば、王国の将来は安泰に違いない。

かつて祖先のアルビニア・ドートヴィルが抱いていたドイツ人や西方皇帝に対する憎しみはブーヴにはなかった。一族の物語として知ってはいても、彼にとってドイツ人とは単にアルプスの向こうからやってくる騎士や傭兵でしかなかった。こうして歴史は上書きされていく。

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1378年、叔父であるサレルノ公アンテミオス・ドートヴィルと話して、彼の次男コミタスをテッサロニキで育てることになった。アンテミオスは次男に土地をやれるし、ブーヴは叔父とつながりを作ることができる。双方に利益のある話だった。

しかし、おかげでブーヴは悩むはめになった。
「この少年をノルマンフランス人として育てるのか? それともギリシア人として育てるのか?」
それはテッサロニキというギリシア第2の都に宮廷を置き、すでに親族の7割がギリシア化してしまっているオートヴィル家の家長としての自分に対する問いでもあった。

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ブーヴの結論は「ノルマン人」だった。
彼は若い従兄弟にコセンツァ領とカラブリア公位を与え、オートヴィル家がはるかなノルマンディーの出であることに誇りを持つよう教えた。コミタス少年は目を輝かせてロベール・ギスカールやアンティオキア公ボエモンの昔話に聞き入った。

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主の1381年、長女エレアノールが成人したころ、ドイツから大変な知らせが舞い込んできた。
長女の婚約者ゴットフリートの父と兄が相次いで死んだため、彼は14歳の若さで皇帝に即位することになったという。

つまり、エレアノールは今やアスカーニエン朝の皇后様というわけだ! あまりのことにブーヴは頭がくらくらした。

しょせん傭兵出身の田舎王家のオートヴィル宮廷と帝国宮廷とでは格が違いすぎる。式は2年後だ。それまでにエレアノールにちゃんとした礼儀を仕込まないと。

2年後、エレアノール・ドートヴィルは無事ズントガウの帝国宮廷に嫁いだ。さすがに皇帝相手に母系結婚はできなくなっていたので、通常結婚の形になった。

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 まさか一族から西方帝国皇后を出すとは思わなかった

だがこの結婚のせいで王国の継承者論争に再び火がついてしまった。
女王候補と見込んでいたエレアノールはアスカーニエン家に入ってしまった。4姉妹の残り3人から女王を選ぶか、あるいは分家男子で収めるか。
女性君主なら法改正が必要だ。分家男子なら必然的にギリシア系となる。論争は激しくなる一方だ。

結局、王国内のオートヴィルではまとまらず、暫定的にフランスの小マルコスに継承を依頼するはめになった。なんとも情けない。

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「わかった。あくまで仮の話としてお受けしておく」
 実際、方針が固まらないだけで、フランス分家と統合するつもりはない

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 1380年のカペー朝フランス
 仮に小マルコスが継承するとブルゴーニュの領地を統合できるが、
 西方の戦争に巻き込まれたくないのでできれば避けたい

内戦
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1379年8月、アテネ公フェラン・ドートヴィルはリュキア領の農民反乱を鎮圧するため、船隊を仕立てて小アジアへ渡ろうとした。
かねてからフェランを排除しようとたくらんでいたブーヴは港に兵を配置し、フェランの捕縛を試みた。

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だがフェランは逃げ切った。そしてリュキアで挙兵し、即座に親族のキュビライオトン公ガヴァラス家とキレナイカ公国フランドル家に書状を送り、対テッサロニキ連合軍を組織してしまった。

ブーヴはフェランを舐めていた。王国総動員をかけず、ギリシア側諸侯と傭兵だけで対応できると思っていた。だが、半年もしないうちにそれが誤りであることがわかった。そしてこの内戦には終わりがなかった。

1384年5月、横入り参戦したラテン帝国アカイア公に首府パトラスをde jure奪取されるという事件があったものの、フェランのアテネ公軍はまったく降伏する気配を見せなかった。

苛立ったブーヴはイタリア諸侯にも従軍を命じたが、その戦力の半分はシチリアやアプリアでの農民反乱の鎮圧に回され、ギリシアへ渡ることはなかった。

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 1386年、ロマニア大乱
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 カーン朝ハンガリー王国は以前から黒海北岸に進出していたが、
 最近になってコムネノス家のトレビゾンド帝国を継承で王国に繰り入れた

1386年6月、もはやこの戦争は単なる1王国の内戦ではなく、ロマニア全土を覆う大乱の一部と見なされはじめていた。

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 血で血を洗うラスカリス家の内紛

ビザンツ帝国では放逐された前帝アンドレアスがコンスタンティーネ女帝と泥沼の戦いを繰り広げていた。
ルム・セルジュク朝ではアナトリアの土侯たちが一斉に牙をむいた。
ラテン帝国では帝国領の7割を支配するアカイア公フランドル家が皇帝の座を奪おうとしていた。
そしてシチリア王国ではすでに7年ものあいだ戦と農民反乱が続いている。

これら4国は、かの悪名高き第4回十字軍を遠因としてロマニアに成立した王国・帝国だ。いずれも地域を統一することができず、4すくみ状態になっていた。そしてそれら全ての国で内乱が発生すると、もう誰にも手がつけられない状態になった。

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1204年の帝国崩壊以来、ここまでロマニアが乱れたことはなかった。
軍勢は同じところを何度も行き来し、土地は荒れに荒れた。困窮した農民は教会を焼き払い、捕らえた王侯を売り飛ばし、異教徒とたやすく手を組んだ。

「もうこれまでの良識が通用しない時代が来る」
いくらか残っていた善き人々は不安に身をよじり、それぞれの神にひたすら祈った。