東方の白い死
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 小アジアからギリシア、そして南イタリアへ
 天然痘の感染地域が拡大していった

ロマニアの大乱は13年続いた。勝者はいなかった。
戦いに明け暮れる人々を東方からやってきた『白い死』が呑み込んだのだ。

司教も騎士も農民も、みな肌に白い水泡を生じて死んだ。恐怖にとらわれた人々は仕事を投げ出し、家から走り出て、鞭打ち行列や死の舞踏に身を投じた。
 
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 アテネ公、鉄壁のフェラン・ドートヴィル
 生涯かけて従兄弟ブーヴと対立した

「もはや戦いを続けても無益だ」と考えたアテネ公フェランは、シチリア王ブーヴに和平と再臣従を申し出た。だがブーヴはフェランの使者を追い返し、アテネ公家の完全な屈服を求めた。 
 
この様子を見た人々はブーヴが悪魔に憑かれたと考えた。

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しかし、ブーヴは狂ったのではなかった。彼にはどうしてもフェランと妥協できない理由があったのだ。

フェランの再臣従を認めても、彼は近いうち必ず反逆する。オートヴィル家が現行の男系継承でいく限り、女系すなわちアデル系オートヴィルのアテネ公家とは永遠に不和が続く運命なのだ。

この問題を解決するための策は2つあった。

・アテネ家に公位を返上させ、他の家臣の傍臣の地位に落とす
・法改正で女系継承を可能にする

戦なしにフェランが公位を返上するとは思えない。
また、法改正にはすべての封臣の賛同が必要だ。そしてフェランとの関係はもはや修復しようがない。

つまりどちらの選択肢を取ったとしても、フェラン・ドートヴィルと戦ってこれを排除することになる。

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だが、はたしてそんなことのために国を荒らして戦う必要はあったのだろうか? 悪疫の中、「矛を収めよう」と提案してきたフェランの方があるべき君主の姿ではなかったか?

やはりブーヴは悪魔に憑かれていたのかもしれない。

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主の1392年9月、フェランが『白い死』によって亡くなると、アテネ・オートヴィル家の遺臣たちは公女エロディーを擁立して王の和睦に応じた。

エロディーは一時テッサロニキに人質として送られたが、ブーヴは彼女をすぐに釈放した。
アテネ公位は安堵された。そればかりかブーヴはロードス島をエロディーに与え、彼女を王宮慈善官に任命したのである。

「わたしを女と見ての手加減か、伯父上」

怒りと屈辱で蒼白になったフェランの娘にブーヴは答えた。

「エロディー、手加減ではないのだ。我々はこの13年間あまりにも多くの死を目にした。主はもはや争いを望まれないだろう。本当に主がいらっしゃるとすればだが」

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 継承法を女子・女系可に改正
 王国諸侯は皇后エレアノールを後継に望んだ

王国諸侯は全会一致で継承法を改正した。これで男系女系の差別がなくなり、アテネ・ドートヴィル家との関係もよくなるはずだ。
 
ブーヴはまた後継者について諸侯の意見を聞いた。彼らは第1王女であり神聖ローマ帝国皇后であるエレアノール・ドートヴィルを選んだ。ブーヴはひとまずその意見を受け取った。

たしかに西方帝国との友誼を考えればそれが最善だ。しかしエレアノールを女王にしてしまうと、12世紀末オートヴィル家のようにアスカーニエン皇帝家がのちのちシチリア王位を請求してくる可能性がある。もう少しよい手はないだろうか?

皇女を迎える
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 若く美しいフランドル家のオード

その年の待降節、シチリア王ブーヴはラテン皇帝レーモン2世の妹、オード・ファン=フラーンデレンを後妻として娶った。先の妃エレオノーラ・デ=ラルサが大乱中に亡くなっていたからである。

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皇女オードはなかなかの浪費家だった。
「アラビアの鷹が欲しい」「ペルシアの紅玉の首飾りが欲しい」「豪華なタペストリが欲しい」とわがまま放題だ。

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 オードがフランドルに発注した6枚組タペストリと同デザインのもの
 のちにリヨンのル=ヴィスト家が型紙を流用したと伝えられる

さすがはビザンツのラスカリス皇帝家に張り合ってきただけあって、フランドル家はなかなか豪奢な暮らしをしてきたらしい。

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しかしオードは王の期待に見事に応えた。
1398年春、彼女はついに待望の男子タンクレードを産んだのである。

直系男子の相続に文句を言う者はいない。これでブーヴの継承問題は綺麗に解決した。(もちろんさまざまな下品な噂はあった)

つづけて次男アレクサンデルも産まれ、テッサロニキ宮廷は明るい雰囲気に包まれた。

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このような縁もあって、シチリア王国はラテン帝国と急速に関係を深めた。
ルム・セルジュク朝やカイセリ土侯国との戦役では、ブーヴはレーモン2世に協力を惜しまなかった。お互いの宮廷の行き来も盛んになり、2人はよい友人になった。

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 ラテン帝国に加入できない
 王国に昇格&直轄領の大きさが逆転したためか?
 現時点でswear fealtyはビザンツにしか出ない

ブーヴはラテン帝国への加入を望んでいたが、諸事情により実現しなかった。
祖母の時代の年代記には『テッサロニキ女公の臣従願いは東西のあらゆる王や皇帝に受け入れられた』とあるが、どうやら時代が変わったらしい。

東方へ
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 ウトラメール、1393年
 プランタジネット家のイェルサレム王国は40年間健在だ

『白い死』がおさまり、ロマニア大乱も終息し、東方はすべて元通りになったかに見えた。
ブーヴはレヴァントへの遠征を考え始めた。目標はシリアの要衝アンティオキアだ。

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 アンティオキア大守、イナルチ家のブルカン
 イナルチ家は1330年代の帝国崩壊時に大ハーンから独立した

アンティオキアといえばかつての十字軍士ボエモン・ドートヴィルの偉業が思い出される。しかしブーヴは人並みの信仰心は持っていたが、いまさら十字軍をやるつもりはなかった。

すでに聖地はイングランド王の第6回十字軍が回復していた。だからこの遠征はどちらかといえば、仮想敵ビザンツの背後に港を確保するためのものだった。

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娘婿である西方皇帝ゴットフリート、義兄であり友であるラテン皇帝レーモン2世、テンプル騎士団が軍を送ってくれた。
 
主旨はともかく、陣容だけは立派すぎるほど立派な十字軍である。人々はこれを『最後の十字軍』と呼んだ。「もうこのような光景は見られることはないだろう」とも噂された。

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 皇帝は騎士の城へ行った そこで罠にかかった
 騎士らは血と砂塵にまみれた 太陽も顔をそむけた

シリアではいくつもの苛烈な戦闘が繰り広げられた。
1395年10月、かつての十字軍要塞クラック・デ・シュヴァリエで行われた包囲戦の物語は今でも歌い継がれている。

包囲され危機に陥ったゴットフリート帝を救うため、テンプル騎士団長ウィラヤーとブーヴの武官長アンドレは重装騎士隊を率いて荒れ地を突破した。そして包囲軍を蹂躙し、みごと皇帝を救出した。
 
アンティオキア大守軍はこの戦いで壊滅し、以後勢力を回復することはなかった。

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こうして1395年の暮れ、3年の戦役を経てアンティオキアは陥落した。

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ブーヴは多くの領地をアンティオキア公領として得た。さすがは世界に5つしかない総主教座都市だ。王領直轄地は10領が管理できる上限だったが、都市・修道院を合わせて22もの領地を抱えることになった。

もはやノルマン系にこだわってはいられない。ド=リューカ家を初めとするノルマンの旧家、ギリシア系のサレルノ・オートヴィル家、フランス系のフランドル家などから次男三男をウトラメールへ呼んできて、男爵に任じる作業が続いた。

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 ブーヴの武官長アンドレ・ファン=フラーンデレンは
 報奨として決戦の地アルカ伯領を与えられた
 
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 クラック・デ・シュヴァリエはテンプル騎士団に献上された
 十字軍の時代も終わりに近づいたが、彼らは黙々と戦い続ける