摂政オードの治世
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主の1402年、王太后オード・ファン=フラーンデレンはテッサロニキ宮廷を掌握した。以後15年にわたり、彼女はタンクレード2世の摂政としてシチリア王国を支配する。

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 母后オード ラテン帝国第4皇女にして王国摂政
 幾人もの王侯の求婚を断りテッサロニキにとどまった

オードは飛び抜けた能力の持ち主ではない。誰もが彼女のことを『頭のからっぽな浪費好きの未亡人』と思っていた。だがオードは実際には廷臣の意見をよく聞き、よく考える名摂政だった。

「寝ても覚めてもビザンツ、ビザンツ。帝国が攻めてくるのではないか、とにかくそればっかり考えている」

当時、ラテン帝国、シチリア王国ともに最大の懸念となっていたのがビザンツ情勢だ。アラゴン王国を丸呑みして強大化したビザンツは、数年の内乱を経て再びラスカリス家のものとなっていた。

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 ラスカリス朝9代皇帝 ロマノス5世
 みな彼のことを『慈愛に溢れ、内気で臆病な青年』と思っていた


ロマノスは7代皇帝アンドレアスの息子だ。
自分の領地エピロスから各地に檄文を送り、ラスカリス正統皇帝に力を貸してくれと必死に訴えた。

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カトリック皇帝ベレンゲー=ルナールの支配を嫌う帝国諸侯の多くが檄文に応えた。

5万という大反乱軍を率いたロマノスは、アドリアノープルの会戦でベレンゲー=ルナールを打ち破り、これをエピロスの牢獄につないだ。こうしてバルセロナ朝ビザンツは1代限りの夢に終わった。

ふたたび強大な正教帝国として復活したビザンツ。
その隣国シチリアの摂政として、オードは何をすべきか/何ができるかを考えた。

●ラテン帝国への援助
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 ラテン皇帝レーモン2世帝は妹オードの援助により
 ビザンツ領トラケシアを奪取した
 
まず、オードの実家でありシチリアの同盟先であるラテン帝国フランドル家に資金を送り、ビザンツに競り負けない国力を維持させる。
 
ロマニアを分割支配する4家(ラスカリス、フランドル、オートヴィル、バルセロナ)のうち2家が団結すれば、そこそこ帝国に対抗できるはずだ。

●未回収のロマニア併合
オードの夫ブーヴ・ドートヴィルはいくつもの請求権を使わないまま死んだ。これらを可能な限り活用し、ロマニアにおけるシチリア王国の領土を拡大する。

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・フィリッポポリス(アドリアノープル公国)
・セレウキア(ルム朝)
・スポレト(教皇領)
・南エピロス(ビザンツ帝国)
・カプア(ヴェネツィア共和国)
が標的となった。いくつかの戦役と交渉を経て、これらは1416年までにシチリア王国に編入された。
 
人々はこの強引な拡張政策を見て「オートヴィル家はキリスト教世界に4つ目の帝国を打ち立てるつもりか」と皮肉を言った。

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 1410年、聖座ローマを包囲するシチリア王軍
 対立教皇ハドリアヌス5世を擁するオートヴィル家にとって
 もはや教皇など隣国の1司教にすぎない

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 南エピロスをロマノス5世皇帝から奪う宰相ド=リューカ
 正面衝突だとまず勝ち目はないが、
 ハンガリーとのトレビゾンド戦争の合間をうまく突いた

●宮廷
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宮廷内はどうか。
 
まず、息子のタンクレード2世はきわめて慎重な少年に育った。
穏やかにふるまっているようで、腹では何を考えているかわからない。教育を担当したド=リューカ卿も彼にはずいぶん手を焼いたようだ。

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 1414年、成人したタンクレード2世
 俊敏、勇敢、「卓越した交渉者」に育った

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オードは息子の妃としてフランドル家のサラジーネ姫を選んであった。
兄レーモン2世帝の第1皇女で、オードにとっては姪にあたる。この結婚でフランドル家とオートヴィル家の紐帯はよりいっそう強固になる。

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 イングランド王太子 プランタジネット家のアルフレッド

娘のアリソンは西方皇帝のアスカーニエン家へ輿入れする予定だった。しかしこれは諸事情により破談した。そこで、まだ若いプランタジネット家の王太子アルフレッドと縁組することになった。

イングランドは安定した王国であり、フランスの1/3と聖地パレスティナを押さえている。文化も近く、頼れる縁戚といっていい。

「我々に与えられた時間は限られている。打てる手はすべて打っておくのがよい」

オードは何かの焦りを感じていたのか、よく臣下たちにそう言っていたという。

ルーシからサヘルまで 
主の1417年7月、キリスト教世界は驚きの渦に包まれた。
 
シチリア王タンクレード2世ドートヴィルが親政を開始し、同時に東方皇帝の至上権を受け入れたというのだ。

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 1417年、さらに拡大した東方帝国

またもや地図は塗り替えられた。
シチリア王国はラスカリス朝の喉に刺さった巨大なトゲだった。そのシチリアが帝国に加入したことで帝国の中央部がしっかりつながった。

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南ルーシのステップからニジェール河のほとりに至るまで、すべての王侯が双頭の鷲旗に忠誠を誓った。かのユスティニアヌス大帝にせまる偉業だ!

だが、帝国の実態はそんな雄壮なものではなかったと言われている。

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 1417年、帝国内勢力図
 茶:バルセロナ家(先帝、アラゴン王)
 薄緑:オートヴィル家(シチリア王)
 紫:ラスカリス家(皇帝)10領にも満たない

ロマノス5世は帝位簒奪者ベレンゲー=ルナールを捕らえ、いまだにエピロスの宮殿に監禁している。
だがバルセロナ家の所領にまでは手を出せない。ベレンゲー=ルナールを推戴した帝都周辺のバタツェス家やガヴァラス家がアラゴン王臣にとどまっているからだ。そのためバルセロナ家は依然として帝都コンスタンティノープルを押さえ、帝国領の5割を確保している。

そして恐ろしいことに、彼らはラスカリス朝8代コンスタンティネの血筋として、いまだに帝位請求権を持ち続けている。いつまた反乱が起きて、天秤がひっくり返るか解らないのだ!

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 ロマノス5世の主要な臣下/
 帝都総主教アレクシオス、
 シチリア王タンクレード2世、
 アラゴン王ベレンゲー=ルナール、
 世継ぎのクレタ公エリアス・ラスカリス

 
そこでオートヴィル家である。
オートヴィル朝シチリアの帝国加入は、この圧倒的な力を誇るバルセロナ家に対するカウンターだ。帝国宮廷のギリシア人たちは昔からこのやり方には通じていた。ラテン人をラテン人で制するのだ。

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もちろん異論はあった。

「歴史上、わずかな例外を除いて常にオートヴィル家は帝国と敵対してきた。こんな連中は信用できません」
「彼らはつい数年前にも皇帝直轄領の南エピロスを強奪したばかりではないか!」

しかしロマノス5世は次のように事情を語って、疑い深い廷臣たちを納得させた。

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 ベレンゲー=ルナールとタンクレードの関係 -82

アラゴン王とシチリア王の関係は相当に悪い。性格の不一致に加え、摂政オードがベレンゲー=ルナールのキエフ遠征に兵を出さなかったことがかなり響いている。

それにシチリア王国がルム朝からセレウキア領を奪取したことで、シチリアとアラゴンは小アルメニア公位をめぐって争う間柄になってしまった。
とどめに、ベレンゲー=ルナールがシチリア王位を欲しがっているときたものだ。

「2人の王が同盟して皇帝に反逆する可能性はきわめて低い」
 
それがロマノス5世の結論だった。

皇帝はオートヴィル家をバルセロナ家の押さえに使いたい。
オートヴィル家はオートヴィル家で、ビザンツ帝国から攻撃されない立場にいたい。
シチリア王国の帝国合流には、こういったさまざまな事情がからんでいたと言われている。

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 『クロパラテス』称号を皇帝から授かるタンクレード2世
 曾祖父ギヨーム4世ドートヴィルもこの爵位を受けた

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 皇統復活、帝国拡張の偉業を成し遂げたので
 ロマノス5世は『大帝』と呼ばれた
 この二つ名はテオドロス3世ラスカリス以来

バルセロナにて
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1418年の暮れ、シチリア王妃サラジーネ・ファン=フラーンデレンは初子を産んだ。
この子はオートヴィル家の伝統に従ってギヨームと名付けられた。王位についた暁には『ギヨーム5世』と呼ばれるだろう。

各地から祝いの使者が到着した。彼らは土地の産物や金品を携えてテッサロニキを訪れ、それなりの返礼の品とともに主君の宮廷に戻っていった。

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 地中海最強国の王都バルセロナ

だがバルセロナからやってきた使者は特別だった。
アラゴン王ベレンゲー=ルナールの名代としてやってきたバルセロナ家のアルフォンス王子は、ジェノヴァの商船隊を借り切って故国へ帰るはめになった。それほど返礼の品が多かったのだ。

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 タンクレード2世は甥にあたるアルフォンス王子を歓待した
 1137万ドゥカートの贈り物は王の全資産の20%に相当

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1422年、アラゴン王ベレンゲー=ルナールはエピロスの宮殿に囚われたまま死んだ。
 
一度は皇帝にまで昇りつめた男の葬儀はごく簡単に行われ、遺骸だけがバルセロナに送られてきた。カタルーニャの民はこの王を愛していたので、 改めて行われた葬儀には王国各地から数えきれない人々が集まったという。

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 新アラゴン王 アルフォンス7世
 シチリア王タンクレード2世(叔父)との関係 100
 皇帝ロマノス5世(主君)との関係 -86

 
長男のアルフォンスが後を継いで王となり、彼は『アルフォンス7世』を名乗った。

タンクレード2世は甥の即位祝いとして係争中のセレウキア領を贈ることにした。ずっと続いていたシチリアとアラゴンの領土争いはこれで丸く収まった。

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 アラゴン王に引き渡されたセレウキア領
 ノルマン人の伯ゴーフリドが引き続き治める
 この贈与は両王家の関係を大きく改善した

アルフォンス7世もまた父王を愛していた。
彼は父がカトリック司祭の終油を受けることも許されず獄死したと聞いてひどく悲しんだ。そして悲しみの深さと同じだけ皇帝を憎んだ。

その様子を見ていた母フレセンダは息子にこう言った。

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 アルフォンスの母后 フレセンダ・ドートヴィル
 タンクレード2世の姉

「息子よ。ラスカリスに父を殺された恨み、おまえが必ず晴らしなさい。そのときは私の弟が力になります」

それからしばらくして、フレセンダはテッサロニキに向けて手紙を書いた。手紙は厳重に封をされ、夜明けとともにギリシア行きのガレー船で送り出された。