市長クレメンス
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オートヴィル朝ラテン帝国の宗教政策はきわめて寛容なものだった。それは旧シチリア王国の伝統であり、異端の徒もラテン帝国内なら安心だった。それでフランスやドイツ、イングランドから鞭打苦行者やカタリ派、ロラード派が大勢移住してきた。

そんな中、カタリ派信徒の一大集合地としてにぎわいを見せていたのがシチリア島のジルジェンティ港だった。

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 市長クレメンス・ド=モンタレグロ

ジルジェンティ市長だったクレメンス・ド=モンタレグロは異端の移民を受け入れることで急速に都市を発展させた。彼自身も熱心なカタリ派だったので、移民たちは安心して生活することができた。

しかしジルジェンティを領するカラブリア・オートヴィル家は反権威的なカタリ派の急伸に危機感を抱き、異端弾圧へと方針を転換。市長クレメンスは当地を追放されてしまった。そこで彼は皇帝タンクレードに助けを求め、テッサロニキ宮廷に亡命してきた。

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 帝国随一の資産家クレメンス
 対立教皇や前ラテン皇帝をはるかにしのぐ財力

タンクレードはこの老人を厚遇し、信仰のありかたについて議論を戦わせたという。皇帝が異端の教えになびくことはなかったが、老人の篤い信仰を評価はしていたようだ。

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 これも賭けと思い、暗殺はあえてしなかった

1444年10月、すでに高齢だったクレメンスは大往生を遂げた。
クレメンスはタンクレードに遺言を残した。
 
「私には子も孫もいない。私が死んだらこの金は半分はカタリ派の同志のために使ってほしい。あとの半分は、そうだな、皇帝が好きに使ってくだされ」

こうして18200枚ものドゥカート貨がタンクレードの懐に転がり込んできたのである。

不可視の激戦
タンクレードはクレメンスの遺志に従ってカタリ派都市や教会に援助をした。それから密偵長ルトバートにビザンツ皇位継承者たちの暗殺を命じた。

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 オートヴィルの鋭き刃 密偵長ルトバート
 のちに男爵領を与えられた

まずは皇弟エリアスとクレタ公ユリアノス・ラスカリスの暗殺。ルトバートが操る密偵たちは7回の試みで目標を排除した。

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 ラスカリスの防壁 ゴリのアルセニオス 

次に控える帝室密偵長アルセニオスは難敵だった。第1皇子グレゴリオス派だったアルセニオスは第2皇子ミカイルの暗殺ではルトバートに協力したが、今回は敵となって立ちはだかる。

アルセニオスの防諜網の練度はすさまじく、こちらが送り込んだ暗殺者が死体となって発見されるならましな方だ。たいていは連絡もなく消息を絶った。

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 タンクレード襲撃さる!

アルセニオスは報復攻撃さえ仕掛けてきた。こちらが気づかぬうちにテッサロニキに間諜を潜ませてあったというのか。単純に資金力で制圧できると考えていたタンクレードは思わぬ抵抗に衝撃を受けた。

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ルトバートとアルセニオスの間で戦われた目に見えぬ闘いはきわめて熾烈なものだったと言われている。宮廷で、波止場で、僧院で、皇帝の代理人たちは智力を尽くして戦った。老練な間諜たち、使命に燃える若者たちが多数命を落としたが、彼らの名前は一切残っていない。

ルトバートは9回の試みの末にようやくアルセニオスと皇太子グレゴリオスを倒した。
 
ここに彼の任務は最終局面に到達した。宮廷の中に張り巡らせた細胞に指令を与え、皇帝カイサリオスの命を狙うのだ。

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1445年6月2日。
ラスカリス朝10代皇帝カイサリオスは宮中で不慮の事故にあい、崩御した。事故の内容については諸説あって明らかでない。

不幸なことにラスカリス家には有力な成人男子がいなかったので、諸侯は次善の策として隣国の君主タンクレード2世ドートヴィルを新皇帝に選んだ。

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こうして一族の悲願は達成された。
『ノルマン人のビザンツ帝国』。オートヴィル家400年の夢。
謀略で領地を削り、内戦に介入し、帝国を割って、何代もかけてついに我がものにした。

それだけではない。前述の通りタンクレードはラテン皇帝でもある。つまり1204年以来ビザンツとラテンに分裂していた東方帝国がここに統一されるのだ。

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 1445年、東方帝国統合
 しかしコンスタンティノープルは依然アラゴン王領

タンクレードは『ラテン人のロマニア帝国皇帝』を名乗り続けた。それで人々はこの国を引き続き『ラテン帝国』と通称した。

なぜタンクレードは伝統あるビザンツではなくラテンを第一称号として選んだのだろう?
 
コンスタンティノープル、すなわちビザンティオンを領有できなかったからと言う者もいる。旧皇帝だったフランドル家の伝統を重く見たという者もいれば、ギリシア人に対する勝利宣言だという者もいる。案外タンクレードがただの珍し好きだったのかもしれない。


東方皇帝として
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 旧皇女アガテ・ラスカリナ

帝国統合後、タンクレードがまず手をつけたのはラスカリス家の取り込みだった。
カイサリオス帝の皇女アガテ・ラスカリナが未婚のままだったので、これを説いて次男ロジェの婚約者とした。

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 1445年12月 後継者ロジェ成人

ロジェはこのラスカリス家の皇女を娶り、ラテン帝国、ビザンツ帝国、クロアチア王国、シチリア王国を継承する見込みだ。嘘つきも治って『公正な支配者』となった。まず満足な仕上がりといえる。

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 名君の素質を見せるカイサリオス2世
 タンクレードとの関係に注目 

旧皇帝の孫、カイサリオス2世にはデュラキオン専制侯位を安堵し、旧帝国のカルシアノン領とエピロス、マケドニアの支配権を認めた。

依然ラスカリスの勢力は強く、摂政預かりとはいえ3公位10領を有する。そこでカイサリオス2世には家格にふさわしい贈り物とカエサル号を与えた。以後、彼を親オートヴィルのギリシア貴族として育ててゆく。

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 1446年9月、満を持してローマ進軍
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 「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」

1448年7月、タンクレードはラティウムの全地とともにローマ市を併合した。かくしてピピンの寄進以来700年ぶりに、永遠の都は皇帝のものとなった。

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しかしタンクレードはテッサロニキの首座司教レオ9世を正統な教皇に擁立することには失敗した。そして現教皇はアラゴン王領バルセロナの寄進地へ逃げおおせた。

かねてよりコンスタンティノープルの領有を巡って睨み合っていたオートヴィル家とバルセロナ家だが、この事件によって両家の関係はさらに緊張をはらんだものとなった。

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またこのころ皇后エテルが2人目の子を産み、その娘はマチルドと名付けられた。オートヴィル家で最初の『紫の間』生まれである。


はるかな故郷へ
1448年10月、宮廷のユダヤ人法学者と話していたタンクレードは、自分が一族の故地ノルマンディーを請求する権利があることを唐突に知らされた。

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どういうことだろう?

確かに彼は旧帝国の半分を継承する東方皇帝だ。しかしノルマンディーはあきらかに西方皇帝の領域ではないのか? ラテン、ビザンツの2皇帝位をそろえたのでローマ帝国復興の使命を担う者と見なされたのだろうか。

タンクレードの問いに法学者はこう答えた。
「西方皇帝はフランキアの皇帝にすぎませぬ。唯一の正統皇帝であるあなたの至上権はヒベルニアの島々からメソポタミアの湿地帯にまで及ぶのです」

「なるほどそういうことなら……」とタンクレードは何か思いついたようだ。それはフランスの情勢に関することだった。

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 1446年4月 セーヌの戦い
 リュジニャン家のユーグ2世 vs 復興カペー家のジル
 オートヴィル家はカペー家側で参戦したが敗北

当時、フランスはブルゴーニュ家のポルトガル王国と復興カペー朝フランスに二分されていた。しかし1446年、カペー朝はキプロスから帰ってきたリュジニャン家によって王位を追われてしまう。

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カペー家の当主、ジルの子ピエールはタンクレードの婿にあたる。彼は妻アヴェイスとともに妻の実家テッサロニキに亡命してフランス反攻計画を練っていたが、リュジニャンの手の者と思われる刺客によって暗殺されてしまった。タンクレードは婿の死を悲しむとともに、歯噛みした。

彼は考えていたのだ。「もし機会があるなら、フランスへ侵攻してラテン皇帝の施政下にカペー朝を復興してみたい」と。

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1449年6月、タンクレードは施政を皇太子ロジェに任せ、少数の手勢を連れて父祖の地ノルマンディーを訪問することにした。

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自分たちと同じノルマンフランス語を話す東方皇帝がやってきたというので現地は大騒ぎになった。彼は祖先が船出したと言われるコタンタン半島のオートヴィル・ラ・ギシャール(en)モンサンミシェルなどを訪れた。

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 イングランド王妃モード・ドートヴィル
 english化して名前がmatildaに変わったか?

それからタンクレードは海峡を渡り、ロンドン近くのウェストミンスターに住む娘のモードを訪れた。イングランド=イェルサレム王モーリス・プランタジネットは義父タンクレードを暖かく迎えた。歓迎の宴は40日間も続いたと言われている。

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この宴の席で、王女イザベラはタンクレードの第二皇子ブーヴと初めて顔を合わせた。元々決まっていた縁組だったが、幸い二人は気が合ったようだ。2皇位を独占しビザンツ皇女を娶る兄ロジェと比べても、プランタジネットの王女を娶るなら遜色はあるまい。嫉妬に苦しんできたブーヴの心がこれで少しでも晴れればいい。

なお、本来の目的であったノルマンディー偵察はあまり成果がなかったようだ。帰路の船の中、タンクレードはブーヴに

「ノルマンディーはあまりに遠く、余に残された時間は少ない。カペー朝復興は息子であるおまえたちに託そう」

と語ったと記録にある。

最後の継承
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1449年の暮れ、ハンガリー王アンドラーシュ3世がクロアチア王国へ侵攻した。幸いすぐに休戦となったが、ラテン帝国に重くのしかかる大ハンガリーの南下圧を感じさせられる事件だった。

タンクレード皇妃でもあるクロアチア女王エテルは、かねてからアールパード家のハンガリー王復位を目指していた。隣接する大国との衝突はいずれ避けられない。そのためには帝国を強く保つ必要がある。

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1452年2月、三男ブーヴが成人した。
ラテン帝国は分割継承のままなので、帝国領の過半を占めるシチリア王領がブーヴに渡る見込みだ。

タンクレードの意向としては、できれば領地は次男ロジェに集中させたい。そこで皇帝選挙制への移行をもくろんだが、ビザンツ帝国領域が荒れていて帝権は最低。私戦が絶えず、これでは継承法改正など不可能だ。

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 2皇位継承者 公正王ロジェ・ドートヴィル
「オートヴィルの名に恥じぬ皇帝に。我が唯一の望みです」

この継承問題に決着をつけるべく、タンクレードは次男ロジェにシチリア王位を譲り渡した。彼は王朝始祖ロジェにならってロジェ2世ドートヴィルと呼ばれるだろう。
 
これによってロジェは帝国のほとんどを治め、将来は両皇帝位とクロアチア王位を継ぐ。大ハンガリーとの対決は彼に託す事になる。またロジェには専制侯 Despotの称号を与えた。

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 ローマ守護者 深慮公ブーヴ・ドートヴィル
「この廃墟だらけの田舎町が『永遠の都』なのか……」

三男ブーヴにはローマを含むラティウム公領を与えた。これにより分割継承下でも王位はロジェに集中し、ブーヴは兄の臣下となる。彼には尊厳者 Sebastokratorの称号を与え、ローマ守護という重大な任務を課した。本人は少々不満だったようだ。

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こうしてタンクレードはわずかに帝都テッサロニキ周辺の2領を治めるだけとなった。信頼できる息子たちがいるという幸福は何者にも代え難い。

タンクレード2世ドートヴィル。
勇敢にして貞正な南方ノルマンの獅子。しかし親族殺しと多数の暗殺に手を染めた。一進一退のロマニア情勢を見きわめ、陰謀を駆使して2つの帝国を併呑した。彼の評価はさまざまだが、オートヴィル家がめちゃくちゃにしたロマニアに再び統一をもたらした点は認めてもいいだろう。

すでにタンクレードは老いを感じ始めていた。
彼は自らの遺骨をフォッジアのモンテガルガノ、帝都テッサロニキ、父祖の地ノルマンディーのオートヴィル・ラ・ギシャールに三分するよう命じた。それから彼は残された時間を楽しんだ。


1452年の降誕祭、テッサロニキには久方ぶりの大雪が降った。
人々は厚手の外套を羽織り、せっせと街路の雪をかいた。それから家族とともに暖かい食事を取り、安らかに眠った。

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Castello del Buonconsiglio, Torento, Italia

雪かきこそしなかったがオートヴィルの家中もほとんど同じことをした。ガレリウス宮殿の中庭で、皇帝タンクレード・ドートヴィルは孫たちや若い廷臣たちが雪遊びをしているのを眺めていた。臣民が満ち足りているので皇帝もまた幸せだった。

それから数日がまたたくまに過ぎ、聖家族の主日が来て、公現祭の日となった。世はなべて平和であった。泥沼の戦役もなく、大帝国の滅亡もなく、こうしてキリスト教世界とオートヴィル家はおだやかに主の1453年を迎えたのだった。


オートヴィル家、1204年 完 

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終了時の顧問団
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1453年のキリスト教世界と周辺

続いて、おまけ