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我が名はテディチェ。ゲラルデスカ家のテディチェだ。
『鈍重なるテディチェ』だと? そのあだ名はわたしの前では口にしないでほしいな。
それではわたしの物語を始めよう。

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wikipedia.it “Pisa” 
あの頃、わたしたちの都市ピサはその栄華を誇っていた。アッコンの波止場からシャンパーニュの大市に至るまでトスカナ方言が聞かれない日はないと言われた。

だがご存知だろう、共和国が栄華を語るとき、その幸運はすでに席を立っている。
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実際には、ピサの商人団はあらゆる地域でジェノヴァとヴェネツィアに制圧されていた。
主の1187年の時点でジェノヴァは西地中海を握り、大洋にまで船を出していた。ヴェネツィアはシチリア以東の地中海を完全に抑えていた。
 
ピサに残されたのはわずか、サルデーニャとシチリアに囲まれた小さな内海だけだ。かつてここにはアマルフィがあった。彼らはすでに衰退し、わたしたちはアマルフィの歩んだ道を歩むのではないかと恐れていた。

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わたしたちは4人の相争う獅子たちの中にいた。
北にはフリードリヒ皇帝の帝国があり、その西隣りではフィリップ2世が自らの王国を拡大しようとしていた。南には怒れる教皇ウルバヌスと、オートヴィル家のギヨーム2世王がいた。

ピサは帝国に属していたが、完全な自由を享受した。ギベリン(皇帝派)とゲルフ(教皇派)の争いの中で、ピサは常に皇帝側に立った。それは我がデッラ=ゲラルデスカ家の紋章を見ればわかるだろう。ただ、アルプスの向こうは本当に遠く、フリードリヒがその軍勢をよこしてくることはまずないように思われた。
 
ゲラルデスカ家について
我が家の歴史は古いようで浅い。
父祖たちはランゴバルドの王侯だったという。しかし記録では200年前の羊毛商人にまでしか遡ることができない。彼はコルシカ島のヤギの毛を集めてきて、それを上等の羊毛と偽ってアラブ人に売った。わたしたちはいまだにその取引を続けている。

長い月日のあいだにゲラルデスカの家系は二つに分かれ、わたしたちはそれを右方、左方と呼び分けた。以下、簡単な家系図を示そう。
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左方ゲラルデスカ家には、わたしと兄、いとこ4名で計6名の成人男子がいる。
兄、いとこの計3名はテンプル騎士となって聖地へ旅立った。ウグッチョネロはアンコナ共和国で密偵長をしている。いとこ4人のうちウゴリーノだけピサに残り、我が家の宮廷付き司祭となった。
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右方ゲラルデスカ家は5名。彼らはアペニン山脈の東、アンコナに出自がある。どういうわけか、みな秀でた能力を持っている。
右方家筆頭の『俊敏なるテディチェ』(ゲラルデスカにはこの名が多い)はアンコナ共和国でパトリキをしている。あとの4人はピサへきて、わたしの館で食客となっている。

このようにピサとアンコナに別れながらも、お互いに人の行き来がある。この2家から按分してピサのゲラルデスカ商会を構成し、できれば交互に家長を出していくことになっている。
 
商会経営の難しさ
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 商会収入の半分が一族の扶養に消えている

33歳の若さ(他は50代60代ばかりだ)で商会頭取を勤めることになったわたしは、まず帳簿をじっくりと読み込むことにした。
ゲラルデスカ商会は決して豊かとは言えなかった。商館はたった2ヶ所、それもピサに隣接した本土のみ。
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それでいて商会員の多さでは群を抜いている。つまり、パンは2個しかないのに食卓につく者は多いという状況だ。

そこで、先に述べたようにテンプル騎士団が解決策となった。
騎士志願者たちはレヴァントへ向かい、ピサに残ったのは左方2人、右方4人の計6人。以前の半分だ。

なかでも右方ゲラルデスカのアリオットは、アンコナ共和国のレヴァント航路でキャリアを積んだ有能な人材だった。わたしの個人的な相談役であり、息子のライネリの教育も任せたほどだ。
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 相談役アリオット・デッラ=ゲラルデスカ
 ギリシア商人、アラブ商人との付き合いで交渉術を磨いた

「外地取引を拡張したい? いやいや、それには商会の足腰が弱すぎる。テディチェ、まずは都市を手に入れるべきだ。自分のものといえる都市をな」

アリオットの意見を容れて、わたしは一族が荘園を構えるピオンビノ市を手にいれることにした。なに、難しいことではない。造船工やガレーの漕ぎ手、食客、乞食たちに棍棒や槍を持たせて市庁舎を包囲させただけだ。

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 ピオンビノ包囲戦

だが包囲は長く続いた……。ピオンビノの市民たちはなかなかしぶとく、彼らの自由をそうそう簡単に手渡したりはしなかったのだ。しかも包囲中にジェノヴァとピサの紛争が勃発し、わたしはピオンビノ市庁を包囲しながら、ピサのパトリキとしてジェノヴァ軍からピオンビノ市を守らねばならないという奇妙な立場に置かれた。

それから息子ライネリのことがある。
ピサがジェノヴァ軍によって劫掠されたとき、出航しようとしていた商会の船が拿捕された。船に息子ライネリが乗っており、人質としてジェノヴァへ連れていかれた。

わたしはその知らせを聞いて怒りで我を忘れた。ライネリは『静かにしておれ』というわたしの命にそむき、包囲をくぐりぬけてピサの平民の娘アデラシアを助けに行っていたというのだ!
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 神の声かなにか知らないが、十字軍士を名乗るならもっと修練を積んでほしい
 
共和国間の紛争はほどなく終わり、捕虜たちも釈放された。
わたしは喜び半分、怒り半分で息子ライネリに面会した。するとどうだ、彼は独房で神の声を聞いたらしく十字軍士になったつもりでいた。昔から多血質で、商売には向かないと思っていた息子だが、さすがにこれにはわたしも言葉がなかった……。
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主の1192年、ピオンビノ市は市門の鉄鍵をわたしによこし、わたしはピオンビノ市参事会の首席となった。戦勝祝いの席で、ライネリには平民の娘アデラシアをめとらせた。アデラシアは息子にべた惚れの様子だ。これで落ち着いてくれればいいのだが。

このピオンビノの入手により、商会の年額収入は以下のように変化した。
前 荘園からの   59百リラ
  商品取引    25リラ 商館2

今 荘園からの   59リラ
  ピオンビノ市税 60リラ
  商品取引    31リラ 商館2

外地で新しい商館を立ち上げるのに200-300百リラを要する。その収入は年額9-15百リラ。つまり、1都市だけで3-5ヶ所の商館を合わせた価値があるということだ。しかも外地の商館と違い、都市は禁輸される恐れもない。アリオットの言うとおり、都市を支配して市税で食べていくのがいかに手堅いかよくわかる。


アンダルシアへ
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そのころ、1187年からずっと続いていたアル=アンダルス十字軍が成功裡に終わった。
キリスト教勢力はベルベル人を海峡の向こうに押しやり、アル=アンダルスはイングランド王ヘンリー2世のものとなっていた。
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 「余はイングランド、アイルランド、アキテーヌ、アンダルシアの王である」

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同時にヘンリー2世はジェノヴァに対して禁輸を布告。ピサもこれに同調した。いや、正確にいえば、わたしたちピサのパトリキこそがこの十字軍と禁輸を工作した黒幕だったのだ。

ジェノヴァはイングランド軍をおそれて早々に禁輸を受け入れ、アンダルシアの全商館から引き上げるはめになった。
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 ジェノヴァが商館を大きく減らした
 新興のアンコナ共和国がヴェネツィアの東方独占を崩し始めている

いまが好機だ!
わたしはアリオット・デッラ=ゲラルデスカをロンドンへ派遣し、ヘンリー2世王に絹と香辛料、アラブ馬を贈った。王はいたく喜び、アンダルシアでジェノヴァ人が占めていた地位をピサが占めることに同意した。

商会はまずマラガとジブラルタルに商館を開設することにした。アリオットの交渉によって、商館開設費用は以前の6割、220百リラまで抑えることができた。彼はすばらしい男だ。

しかし、順風満帆かと思われたこの頃、わたしの心の静謐を乱す出来事がいくつか起きようとしていた。
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 「父上、やはり聖地守護こそが自分の使命と思います」

そう、息子ライネリは本気でレヴァントへ向かうつもりだった。彼の決意は固かった。妻子はどうすると聞けば「連れていく」と言い出したので、さすがにそれは止めた。

わたしがキリスト教徒同士の大義なき戦争にかまけているあいだに、息子ライネリは自らの道を見つけたようだ。もう父は止めだてしない。信じる道を行くがよい。

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かと思えばテンプル騎士となっていた兄ウゴリーノが入れ替わりに帰ってきた。しかし彼は傷を負い、疲れていた。異教徒から聖地を守るという崇高な任務などどこにもなく、十字軍士同士のいがみあいしか見てこなかったというのだ。

彼は数百の手勢を引き連れていた。
「俺はピサのポデスタになる。だから金と兵を出してほしい」と言い出したときには、さすがにわたしも頭にきた。わたしは兄を一喝し、館から放り出した。どいつもこいつも要らぬ血の気が多すぎる。

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 ゲラルデスカ商会番頭、ピオンビノのアドーネ

「ひとつ旅商でもやってみませんか」
苛々しているわたしを見かねたのか、番頭のアドーネが僻地への冒険商業をやろうと言い出した。
「誰も行ったことのない地へ行って、びしっと売ってどかっと儲けてやりましょう。どうです」

わたしは『鈍重なるテディチェ』。
ピサ商人としては異例の用心深さで知られ、冒険と安定があれば必ず安定を取る男。しかしわたしはーー。
 
わたしはこの時初めて『冒険』という人生の道に足を踏み出したのだった。