[デッラ=ゲラルデスカ家、1187年] 
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余はデッラ=ゲラルデスカ商会の頭取、ピオンビノの領主ウンベルトである。

悪名高いウンベルト? そういう言い方をされることもあるな。
余が帯びている一族の家宝、聖ライネリウスの右中指に賭けて、余は人の道に外れたことをした覚えがないのだが。

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余の父アリオットはその名を聞いたことがあるかもしれない。
彼は有能な相談役で頭取テディチェをよく補佐した。
 
また、700日だけ頭取を勤めて亡くなったコスタンツォは余の兄である。聖ライネリウスの右中指を当家にもたらしたのは兄だが、その加護は本人には及ばなかったようだ。

余は自ら潰れた兄を見ていたので、商会の仕事に全身全霊をつぎ込むことはしなかった。狩りや板上遊戯で息抜きをしながら適当に務めるつもりだった。しかし、そういう人間にこそフォルトゥーナは手持ちの金貨を賭けるのか、余の代には思わぬ収入が転がりこむことが多かった。

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 イタリアから琥珀の国リトアニアへの内陸通商路が開かれた

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 消息を絶っていた船団が突如帰港!
 船乗りたちは再会を喜びあった 

商会は幸運に愛され、地中海の金の流れに好きなだけ浴していたのだ。だがそれを見て妬む者がいなかったわけではない。
 
まず主の1236年、ジェノヴァ共和国がピサ共和国に貿易戦争を挑んできた。 
ついで1238年、帝国イタリア総督エンリケット・ディ=ロンバルディアがピオンビノ港の割譲を要求し、国境に兵を集めた。

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 皇帝の犬、エンリケット

ピオンビノは商会の、そして共和国の富の源泉である。
この欲の皮の突っ張った皇帝の犬に、ピサ十字の焼印を押してやらねばならぬ。
 
パトリキたちは短い会合を持った後、おのおのの軍勢を招集するためにすぐさま散った。

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1238年11月5日、ピサ軍はアルプス山麓の決戦でジェノヴァ軍に勝利した。

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そして1239年7月1日、ピサを包囲したイタリア総督軍を余らは決定的に打ち破った。
 
この戦いではユダヤ人シモンがよく戦い、戦士としての真価を見せてくれた。忠誠の代価として、彼とその縁者の信仰は永久に保護されるであろう。
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 バルソオル家のシモン
 金貸しの息子だったがピサで軍人として頭角を現す


東を見る
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さて、その頃レヴァントは大いに荒れていた。
1245年にはアッバース朝がジハードを成功させ、イェルサレム王国はわずかキプロスとトリポリだけの小国と化した。

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エジプトに商館を置いていた当家にとっては一大事だ。
しかし現地からの報告は意外にも興奮に溢れたものだった。

「十字軍の擾乱のない今、当地では実に平穏に商売をすることができるようになりました。いまやエジプトを越え、さらなる東洋に商館網を伸ばすべき時では?」
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なるほど。たしかに北方も地中海もすでに満員だ。
紅海、アラビア海には在地の商人がいるとはいえ、高度に組織されたイタリアの商業共和国に太刀打ちできるものではない。これは好機だ。
 
余はそう考え、さっそくアビシニアのキリスト教王へ使節を送った。
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 ラリベラの岩窟聖堂
 紅海の先にはキリスト教徒たちが住んでいるという
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 Lunaticがつく

人々は余をもの狂いのように言った。
いたずらに航路を伸ばし、商会の体力を消耗させるだけの無謀な計画だと。
 
余はそうは思わぬ。
今実を結ぶことはなくても、これは必要な一歩なのだ。
 
ポデスタとなる
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主の1246年、フリードリヒ二世皇帝が逝った。
余は彼に会ったこともなく、イタリア総督の首に縄をつけることもせぬ怠惰なドイツ人という印象だった。息子のアロイス帝にはもう少しまともな統治を期待したいものだ。
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 新君主、アロイス・フォン=ホーエンシュタウフェン即位 

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同年、ダッピアーノ家の好色ジョヴァンニが死に、余がピサ共和国のポデスタに選出された。若干の資金操作はしたが、おおむね満場一致の選択である。

きわめて安定し、きわめて強力な共和国を余は受け取ったことになる。

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そして今、例のイタリア総督エンリケットが再びその野心をあらわにし始めた。
あの犬め、今度は隣国ジェノヴァを我が物にしようとしている。

ここに余はひとつの選択を迫られた。

商売敵ジェノヴァが退場するとみて、ジェノヴァ領サルディニアを奪取すべきか?
あるいは、ジェノヴァに与してイタリア総督の強大化を阻止すべきか?

なかなかに難しい問題だ。
余はこれを盤上遊戯として考えてみることにした。ひとつ、友人たちを招いて盛大な会を催そうではないか!
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 盤上遊戯は大いに盛り上がったが……

 ウンベルトはその会の席上倒れ、そのまま息を引き取った
 毒酒を盛られたか、勝利の興奮に血の気が上りすぎたかは定かでない
 
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 主の1247年、ジアン・デッラ=ゲラルデスカは主の平和のうちに召された