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 イルデブランド・デッラ=ゲラルデスカ
 いろいろ理由(不具合)あってアンコナの紋章を帯びている 

 
待たせたな、わたしがイルデブランドだ。
商船の艤装に手間取ってしまってな。
 
そうだ、ピサ共和国商船隊はついに明日出航する。
わたしの話を聞きたいと言っていたな、まあ間に合ってよかった。
 
アレクサンドリアからピオンビノへ
わたしは少年時代をアレクサンドリアで過ごした。
 
当時、エジプトには新興の海洋国家アンコナが商館を置いていた。アンコナのポデスタの息子だった父は当地に赴任し、そこで母がわたしを産んだ。

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 レオナルド先生Leonardo Fibonacci/ja.wikipedia)

わたしはアラブ人やコプト教徒、ユダヤ人と机を並べて算術を学んだ。有名なピサのレオナルド先生がアレクサンドリアにきていて、研究がてらわたしたちを厳しく教えた。おかげで今でも算術の腕はなまっていないよ。

しかし主の1226年、アンコナ共和国が帝国に併呑され、父と母は祖国を失ってしまった。エジプトの商館は閉鎖され、資産はすべて叩き売られた。

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 最近の商会頭取は右方ゲラルデスカばかりだ

父母はわたしを連れていったんイタリアに帰ろうと決めた。叔父のジアンがピサのパトリキで、またピオンビノの領主だったからだ。

父はピオンビノに家を借り、ピサのデッラ=ゲラルデスカ商会の代理人として働くことにした。しかしイタリアへの航海への途上、病を得て亡くなった。そこでわたしが家長として立つことになった。

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 娘時代は美人で有名だったが、歳を重ねてからは経営手腕で鳴らした
 
ジアン叔父の勧めもあって、わたしはカエタニ家の娘ベレニチェを娶った。ベレニチェは当代きっての才女であるばかりか、当時のピサで「金勘定を任せたらかなう者なし」という娘だった。わたしはその後再婚したが、いまでも彼女はわたしの人生で最高の共同経営者だな。

さて、ピサの商会は非常に富み栄えていたので、その資力でもってアンコナ退場後のエジプトの空隙を埋めようとした。1228年、ジアン叔父は代理人をエジプトのガラビーヤに派遣することに決めた。

では誰を送ろうか? 

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選ばれたのはもちろんわたしだった。生まれ育ったエジプトでわたしは水を得た魚のように動き、アレクサンドリアを始めとする当地の商館網をじっくり時間をかけて再建したのだ。

ジアン叔父が死んだとき、わたしはとてもつらい思いをした。しかしこの話はまた今度にしよう。

次に商会頭取を勤めたウンベルトさん(彼は共和国のポデスタにまでなった)にもわたしはずいぶんお世話になった。わたしは彼の保護のもとアレクサンドリアの代理人として貴重な経験を積んだ。

わたしはエジプトで働きながら、富の流れを見つめ続けた。そしてひとつの結論に達した。わたしはウンベルトさんに手紙を送った。

「エジプトを越えて、紅海、そしてアラビア海にデッラ=ゲラルデスカの商館網を伸ばすべきです」とね。しかしこれは実現しなかった。ウンベルトさんもまた1247年に死んでしまったからだ。

しかしわたしを一番驚かせたのはその死の知らせではなかった。
とんでもないことだと思ったのだが……なんとピオンビノの商会本部はウンベルトさんの後任にわたしを選んだのだ!

ずっとエジプトで代理人をしていたわたしをイタリアへ呼び戻すという、あまり普通でない決定は商会の外にも波紋を呼んだ。

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主の1248年、仇敵ヴィスコンティ家の商船がゲラルデスカの印の付いた船荷を積んでピサへ入港した。その少し前、わが商会の船団が消息を絶っていた。この事件ののち、ヴィスコンティ家とデッラ=ゲラルデスカ家の緊張は一気に高まった。

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それからしばらくして、共和国ポデスタのオルソ・ダッピアーノ氏がわたしをピサの市庁舎へ喚問した。

「デッラ=ゲラルデスカ商会は多くの商館を有している。共和国のバランスのために、ヴィスコンティ家にいくらか商館を引き渡しなさい。彼らはとても商館が少なく、困っている」

とんでもない!
仇敵ヴィスコンティ家に商館をくれるくらいなら、共和国を離脱するほうがましだ。
 
しかしこの一件はわたしが粘り強く交渉したおかげで、うやむやにすることができた。そうしてそれ以来、ヴィスコンティ家に悩まされることはなくなった。
 
海をひらけ
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主の1251年、わたしは初の冒険商業を企画することにした。代理人生活が長くて、冒険商業はあまりやったことがなかった。

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船団を派遣するのは紅海だ。そう、若き日の発案を実行に移すときがきたのだ。行き先はアラビアの港ジッダと決まった。大胆すぎると思うかもしれないが、当時のアラビアで一番話のわかる人物がここにいる。わたしはみずから彼に会いにいくことにした。
 
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 ジッダの太守、ハシム家のムターイン2世

ナイルを遡り、ダウに荷を積み替え、わたしたちは紅海を南下した。
そうしてあまたの巡礼船が集う港、異教徒たちの白き港、ジッダに到着した。

太守ムターインは評判どおり開明的な人物だった。
話せば話すほどわたしは彼が気に入った。
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彼はよきムスリムであると同時に、イタリアで勃興しつつある新しい学問や技術にも興味を持っていた。そこでわたしは技術者を派遣すると約束した。かわりに彼はピサ共和国の船団の寄港と商人の保護を認めた。

旅商は大いなる成功に終わった。
ここにピサ共和国はイタリアからエジプト、紅海に至る商業路をひらいたのである。

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その翌年、先の頭取ウンベルトがアビシニアへ送った使節、ライネリ・デッラ=ゲラルデスカがピサに帰ってきた。彼はこう話した。

「ハシム家とは違い、アビシニアの王家はまったく我々の提案に興味を示していない。またアビシニアの国はとても乱れていて、まともな商売をできる状態ではない。しかし」
「しかし?」
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 「まともでない商売なら今が好機だ。いま、アズメラという老侯がアビシニアの王位争いにうつつをぬかしている。彼の領国アッサブは荒れに荒れている。これを取るのは、熟れた果実をもぐよりたやすい」

紅海に商館網を広げるにあたって、わたしは困難に遭遇していた。
地中海や黒海、大西洋、北海はひとつの海だ。船に乗りさえすれば行くことができる。しかし紅海は別の海だ。この海域に商館を築くことはできない。港をひとつも所有していないのだから。

「イルデブランド、アッサブ港を取ることで我々は紅海を支配できるのだ」

なるほど、実に魅力的な提案だ。
わたしは商会予算の1/3を費やしてこの計画を進めることにした。

ピサ共和国(の1商会)がアビシニアへ十字軍を送るという噂はたちまち広まり、物見遊山めいた者から放浪騎士まで、さまざまな人々がピオンビノへ集まってきた。

だがわたしはセルビア人の槍兵隊3000を雇い、これを主力として軍を派遣した。有象無象に商会の命運を賭けるつもりなどさらさらなかったからだ。

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1252年11月5日、商会軍はメクエレの会戦でアビシニア軍を打ち破り、アッサブ領における商会の支配を確実なものとした。わたしはそのときジッダにいたが、報告によれば激戦につぐ激戦だったということだ。
名称未設定
 メクエレの会戦
 わざと薄くした中央(ユダヤ人シメオン指揮)に敵騎兵を誘い込み、これを両翼の歩兵隊が包囲殲滅した

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 アビシニア、アクスムの隣国アッサブに
 ピサ十字と帝国の鷲旗が揚げられた

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 商館網を構築するため、一時的にアッサブに宮廷が移された

いまやゲラルデスカ商会は紅海の支配者だ。
ジッダの太守と同盟を結び、紅海の口に砦を築き、そしてインドさえ視野に入ってきた。

そう、インドだ。
おかしいと思うかね? ところがまったく冗談ではない。わたしは最初からインドを目指していたのだ。幼いころ、イスカンダル大王のインド遠征を話に聞いたときからずっとだ。

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だがまずは少しずつ地歩を固めていかねばならない。
アッサブには長男のジアノを総督として残し、ここを死守するよう命じた。ジアノはよくできた息子だ。紅海を丸ごと任せるのに不足はない。

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 アビシニア征服者
 
主の1255年、わたしは万雷の拍手でもってピサ共和国のポデスタに選出された。若干の反対票はあったが、『アビシニアを征服した男』にかなう者はいなかった。

しかしポデスタはピサにいる必要がある。そこでインドへの冒険はおあずけになった。

わたしがどれだけ船を出したかったか!
この気持ちをわかってくれるかね。

旅立ち
さて、あれから2年が経った。
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その間、ルッカを巡って敵対関係にあったイタリア総督を闇に葬ったり、
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アロイス帝の寵を得て帝国執政に任命され、個人的にも親しく交わるなど、イタリアでやることがたくさんあった。

そして明日。
ついにわたしはピサを離れ、インドへの航海に出る。

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 海の向こうにあるかもしれない美しい宮殿
 (Haji Ali Dargah/en.wikipedia)

紅海を越え、アラビア海を越えた先に何が待っているのだろうか?
それはわたしにはまだ語ることができない。

すでに夜も更けた。まだ聞きたりない?
旅から帰ってきたらいくらでも話してあげよう。
かの地には語るべきことが海の水のように満ちているだろうから。

出航は見に来てくれるだろうね。
それではまた明日、おやすみ!

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 イルデブランド・デッラ=ゲラルデスカ 1257年
 彼の代、ピサ共和国は(紋章が変だが)華々しい繁栄を極めたという


デッラ=ゲラルデスカ家、1187年 終