[ビャルトラ家のサガ]
凡庸なヤルル
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レフィルの子スヴェルケルに注目する者はあまりいなかった。
彼は凡庸で、蒼白な顔をした目立たない少年として知られていたからだ。彼には兄弟が多く、スヴェルケルという名もまたビャルトラ家には多かった。

しかし『平たい顔のレフィル』が死んだとき、彼は次のヤルルとしてスヴェルケルを指名した。スヴェルケルは黒海のタンタルキャとバルト海のリフランドを受け取り、終生これを失うことはなかった。

スヴェルケルは母アガフィヤに似てスラブの血が濃く、別に顔も平たくはなかった。そして人々はのちに思い知ることになるのだが、父親と違って酷薄だった。多くのスカルド詩を詠んだらしいが、そのいずれも伝わってはいない。
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 古都エチミアジンの聖堂

スヴェルケルはアルメニアで教育を受けた。そのころアルメニア王の宮廷には学芸と武勲詩の花がさかんに咲いていたからである。

また父親のレフィルはスヴェルケルに当地独特の神の教え(合性論キリスト教)を学ばせようとしていた。しかしスヴェルケルはあまり神学のことはわからなかったようだ。 
名称未設定
一方そのころ、ガルダリキにも帝都ミクラガルズやモラヴィアから多くの伝道者がやってきて、その神のことを毎日宣べ伝えていた。人々はこのイエズスという神がオーディンやトールやスヴァローグよりも強力であるということだけはわかったので、信者は日に日に増えていった。

タンタルキャに帰ってきたスヴェルケルは、特に深く考えることもなくこの神官たちを宮廷に入れた。彼の仕えるカガンもローマから派遣される神官たちを庇護していたので、都合がよかったのかもしれない。
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 キリスト教徒カガン コルネール2世
 verアップによりイベントスポーン兵が消耗するようになり
 兵数は6000から1800に急減、それでもなお計11200の兵を擁する

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 アルメニア王家の最後の光、オヴサンナ
 ほどなくしてアルメニアはアッバース朝とビザンツに分割され
 ビャルトラ家合性論化計画はここに幕を閉じた


スヴェルケルがアルメニアから連れ帰った妃オヴサンナは故郷の信仰を守り続けた。夫妻の間に宗論があったという記録はない。双方うまく折り合いをつけていたのだろう。
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さてこの時期、書記官としてスヴェルケルを支えたのはユダヤ人学者のラヴァイという男だった。ラヴァイは東西交易について深い見識があり、スヴェルケルにサルパ領の獲得をすすめた。
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サルパ領ははるかカタイから伸びる『草原の道』の終端、ターナ港の手前にある。

ここはマジャル人のセーチェーニ家が支配する小領で、グルジュとマジャルの2カガン国のあいだで危うい均衡を保っていた。
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「セーチェーニ家の同盟部族はきわめて少ない」とラヴァイは指摘した。「したがって狙う者も多い。いま我々がもぎとっておかないと、すぐに他国のものとなるでしょう」
それでスヴェルケルはサルパ領を攻めることにした。
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 連水陸路の戦い

主の991年、スヴェルケルはドゥンとダンパルの両河をつなぐ連水陸路でセーチェーニ家のマーテーを破り、サルパ領を手に入れた。

ここにひとつの挿話が伝わっている。
戦勝を記念して開かれた宴は夜半に及んだ。ノルド人たちは荒れに荒れ、あちこちで喧嘩が起こり、杯は乱れ飛んだ。

アルメニアの荘厳な典礼のもとで育った妃のオヴサンナはノルド人の無礼に耐え切れず、館の大広間を出て城壁の上に新鮮な空気を吸いにいった。
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大きな月が出ていた。それは見事な満月だった。
そしてオヴサンナは見た。城壁の上で彼女の夫がすべての衣を脱ぎ捨て、裸体となって、月に向かって咆哮しているのを。

みるみるうちに夫の蒼白な肌からは黒い剛毛が伸びいでて、全身を覆い、そしてオヴサンナは悲鳴をあげて彼女の寝室に逃げ帰った。

記録ではスヴェルケルの人狼化は生涯に2度あったという。目撃されていないだけでもっとたくさんあったかもしれない。
 
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 ひさびさのノルド人嫁

スヴェルケルは人狼だったかもしれないが、人間として一族の繁栄には心を配っていた。
 
長男レフィルにはウプサラのヤルル、ムンソ家からアストリッド姫を迎えた。鉄人ビョルンで知られるムンソ家は今はイエズスの教えに帰依しており、スヴィドヨッド王位を失ったのちデーン王の臣下となっていた。

この時代になってもガルダリキとスヴィドヨッドの行き来は活発だった。「南の大平原で馬を駆るノルド戦士たちがいる」という噂はウプサラでは普通に聞かれた。

しかしアストリッドは見知らぬ南へゆくのを嫌がった。そこでレフィルは父スヴェルケルに願い出て、スヴィドヨッドからほど近いリフランドのラーネを所領とし、ここに住んだ。
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 たいへん将来が楽しみな息子

レフィルはきわめて優れた息子だったので(なんと文字を刻むことができた!)、ユダヤ人書記官ラヴァイが死んだあとスヴェルケルは彼を書記官に任命した。しかし彼は「アストリッドが嫌がりますので」と言って、南へ来ることはなかった。

それでもレフィルはきちんとリフランド代官の仕事を務め、さかんに白樺の皮の手紙を送って北方や西方の事情を父親に書き送った。
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 「……近頃イングランドではマーシアのサエベルト王が統一を果たしました。ノルド人勢力はマン島とスコットランド西岸のみに後退しています」
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 「……西方帝国は神の怒りを買い、7つに分裂したと聞きます」

もちろんスヴェルケルは字が読めなかったので、モラヴィアから派遣されたイエズスの神官に読んでもらっていたという。
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次男のキャルタンも兄に似て賢く育ったが、婚約中に他の娘を孕まして回るなど素行に問題があり、ビャルトラ家のあとつぎには向かないとスヴェルケルは考えていたようだ。
 
マジャル人たちの内紛
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 親友ドモトル

異教徒グンナルが放逐されたあと、カガンからルーシの統治を任されたのはアールパード家のドモトルだった。彼はカールパート山脈の北にあるガーリチに宮廷を置いた。武勇で知られ、またカガンに対する忠誠も篤かった。

ドモトルには妃としてスヴェルケルの姉インガが嫁いでいたので、ガーリチとタンタルキャの間にはさかんな通交があった。スヴェルケルはドモトルと何度も巻狩りをしたことがあり、二人はたいへん親しい友人だった。

一方、ドモトルには敵がいた。
先のカガンの子ドナートである。ドナートはカガン国の東端ブリャンスクを治めていて、ルーシとの国ざかいでは牧草地争いが絶えなかったという。
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さて主の997年、コルネール2世が身まかり、部族長たちは彼の子ボルディジャールをカガンに選んだ。

このボルディジャールに対して反乱が起きた。首謀者はドナートである。彼は自分こそがカガンの正統だと信じており、独立してカガン位を僭称しようとしたのだ。ドナートのもとにはビャルトラ家のエムンド、サルケル領主、西方のポラーン族などが集まった。
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 ポロツク領主 ビャルトラ家のエムンド
 自立したアルフ系ビャルトラ家で、スヴェルケルのまたいとこ
 いまや希少な異教徒

いくさが始まると、すぐにガーリチから早馬がきた。
ドモトルがスヴェルケルに参戦を要請してきたのだ。
 
 「わが友スヴェルケルよ、戦いのときが来た。
  ともに鞍を並べて大平原に打って出よう」

義兄ドモトルからの要請にスヴェルケルは軍勢を招集して応えた。個人的な友誼もあったが、もしかしたらドゥン河ぞいのブリャンスク領の一部を切り取ることができるかもしれないと考えたのである。
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 さらなる領土獲得なるか

スヴェルケルはリフランドから長男レフィルを呼び寄せ、副官として側に置いた。頭のよいレフィルは戦場でも有能だったと言われている。
 
いくつかの小競り合いを経たのち、カガン軍と反乱軍は北ルーシのオルシャで決戦に臨んだ。
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 主の998年、オルシャの戦い

おお、なんとぶざまな戦いだったことだろう!
明け方、数で優勢なカガン軍は敵前で河を渡るという禁じ手を犯した。完全に相手を舐め切っていたのだ。そこにビャルトラ家のエムンド率いるノルド戦士団が襲いかかった。 
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 敵方についたポロツクのノルド人たち

カガンの馬はことごとく鉄縁のついた盾で足を折られ、泳ぎも知らぬ乗り手はみな流された。必死にかけあがった河岸にはマジャル騎兵が待ち構えていて、カガンの戦士たちを蹄にかけ、血みどろの肉片に変えた。
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 蹂躙されるスヴェルケルの本隊

スヴェルケルもまたほとんどの兵を失って敗走した。
彼の2度目の人狼への変容はこのとき目撃されたものだと言われている。追い詰められたスヴェルケルは敵兵の喉を噛み破り、腕を食いちぎり、黒い雲のごとく疾駆して森の中へ消えたとマジャル人の戦記にある。

もはやカガン・ボルディジャールに余力はなかった。彼は敗北を受け入れた。エムンドのポロツク領、ドナートのブリャンスク領、サルケル領などが独立し、カガン国の輪郭は一回り小さくなった。
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 領土(点線部)を大きく減らしたマジャル・カガン国
 ポラーン人の反乱はまだ続いている
 東のピンク色は同じマジャル人のグルジュ・カガン国 

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弱り切ったマジャルに、大平原のグルジュ・カガン国が侵攻したのは翌999年のことだ。
誰もが「予想できたことだ」と言った。だがそれに対して手を打てた者はひとりもいなかった。
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 鉄人ティボル
 正教徒のマジャル人カガン


グルジュのカガン、ドーリ家の鉄人ティボルは70にしてなお意気軒昂だった。その軍勢はいなごのように国境を侵し、村々を焼き払う。イエズスの神官たちはティボルを「世の終わり、反キリスト」と呼んで恐れ、多くがモラヴィアやポラニアへと逃げ帰った。
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しかしそれだけでは済まされなかった。
西方帝国の残余のひとつ、東フランクが動いたのだ。その王フポルトはボルディジャールの臣従を要求して、カガン国の心臓部ウンガルンへ侵攻。ボルディジャールは東西両面で戦うはめになった。
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開戦後数ヶ月でティボルは死に、その子ルカーチがグルジュのカガンとなったが侵攻は止まらない。

ルカーチもまた強力なマジャル人戦士だ。しかも彼はセルクランドで教育を受け、アッラーという唯一神の教えと重歩兵運用を身につけた異才中の異才だった。
 
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東西から大軍が襲いかかり、民は逃げ、土地は荒れに荒れた。
グルジュに接するタンタルキャは最初に狙われた地域のひとつである。スヴェルケルは父祖たちが苦労して建設した町を焼き払い、軍を率いてクリミア南部の山岳地帯にこもった。

スヴェルケルはここで耐えてカガンの援軍を待つ構えだったが、いっこうに援軍は到着しない。それもそのはず、ボルディジャールのカガン軍は、はるか遠いカールパート山脈で最終防衛線を敷いていたのだ。その兵数は数々の敗北の結果3000を切っていた。辺境の防衛に割く兵力などどこにもないのだった。

スヴェルケルは長期の包囲に備えて避難民に山を降りさせた。このとき多くのノルド人、スラブ人がグルジュの兵に殺され、また餓死している。それで民はスヴェルケルを憎み、この男にイエズスの呪いがふりかかるよう精霊たちに願いをかけた。
 
荒波のなかで
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 1001年、ガルダリキの混乱をよそに
 西方ではノルド人がヴィンランドへと到達していた

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主の1001年、ついにスヴェルケルは覚悟を決め、妃オブサンナと妹ハッラを黒海を越えて帝都ミクラガルズへ逃がすことにした。次男キャルタンを二人につけたが、彼は現地でヴァリャーギ親衛隊に加わるつもりだという。弁は立つがあまり武器の似合わない次男を見てスヴェルケルは不安を覚えたに違いない。

明けて1002年、カガン・ボルディジャールはカールパート山脈より東をまったく掌握できなくなっていた。そこで彼は東フランク王フポルトに降伏し、毎年10万ドラクマの貢納と兵力の提供をすることにした。

同じ降伏するにしても同じマジャル人のグルジュ・カガン国と東フランクではまだしも後者のほうが扱いがましだと思ったのかもしれない。
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 東フランクの黒鷲旗が黒海にまで翻るかと思われた

しかしフポルト王の軍が展開するよりも早く、グルジュの軍勢がダンパル河を越え、プリピャチの沼地を越え、ポラニアまで電撃的に到達した。

マジャル・カガン国の部族長のほとんどが戦意を喪失し、グルジュに寝返った。最後までボルディジャールが掌握していたウンガルン盆地さえ失われた。こうしてグルジュのカガン、ルカーチはフポルト王が得るはずだったものをすべて得た。
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 ドナウからカスピにかけての全地がドーリ家のルカーチのものに
 先に述べたとおり彼は敬虔なスンニー派ムスリムだ

ルカーチはウンガルンに入ると、かつてアールパード家がそうしたように都市に定着することを決めた。そうしてサライのサコリ家(正教徒)に故地の大平原をまかせ、みずからはウンガルンとルーシ、黒海北岸を領するカールパート・スルタン国を打ち立てたのである。
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 中央ヨーロッパに巨大なスルタン国が誕生した

この荒波を旧マジャル・カガン国の家臣たちはどうやって乗り切ったのだろうか。記録によれば、彼らはひとまずはスルタンの支配を受け入れたようだ。アールパード家が庇護していたイエズスの神官たちもおびえながらその布教地にとどまりつづけた。

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この年、帝都ミクラガルズにてスヴェルケルの年の離れた妹ハッラが成人した。スラブ人の母アガフィヤに似た美しい乙女だったと言われている。彼女はなんと皇帝ゼノビオスに求愛され、東方皇帝正妃として宮廷に迎えられることになった。

若き皇后ハッラが故郷タンタルキャの生き残りのために便宜を図ったかどうかは知られていない。

しかしキリスト教徒でアールパード家の忠実な家臣だったビャルトラ家がスルタン・ルカーチと微妙な関係にあったことは間違いなく、彼女の存在が黒海北岸をめぐる多国間関係にある程度の重みを持っていた可能性はある。

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主の1004年、ビャルトラ家のスヴェルケルは57歳で帰天した。
人々は彼を愛さなかったが、息子のレフィルには大きな期待を寄せていたので、これを喜んだ。

レフィルは父親のためにルーン石碑を建立し、「レフィルの子スヴェルケルはタンタルキャに生まれ、そこで死んだ。彼はサルパの地を征服した」と刻ませた。