<前回までのあらすじ>
ひさびさの名君ダグの登場によってリフランドは富み栄え、その領国の数も増した。皇女を嫁に迎えるなどして、次代ヒシングの治世は万全の態勢でスタートした。

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紺碧の海、砂また砂の海岸線。
モーロ人の投げ槍と、彼らの雄叫び。

ノルドの戦士たちは浜辺での戦闘に勝利し、多数の捕虜を奴隷として持ち帰った。金貨も宝飾品もなかった。この海岸で産するものは奴隷だけなのだ。

奴隷はセビリアのムスリムに叩き売られた。そうしてヒシングはこの遠征の対価がディーナール貨60枚にしかならないことを知り、悪態をついた。
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 おそらくビャルトラ家最後の略奪行

先代のダグが死んだとき、ヒシングは遠い遠いモロッコの沿岸にいた。異教徒に対する略奪行の最中だったのだ。

ほかの兄弟と違い彼には領地が与えられなかったので、みずからの威信を示すため略奪遠征をする必要があった。それにしてもモロッコまで行くとは……。
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 ダグの子ヒシング、リフランド公
 正教への改宗を拒んだ

ヒシングは己に厳しい武人だった。その武勇は名高く、特に防衛戦に強かった。彼のもとには多くの戦士たちが集ったのでその軍勢は5700を数えた。

しかし初陣でひどい傷を負い、その醜い傷は一生残った。妃エウフラシアはこの傷のためヒシングを避けたので、ヒシングはひどく気分を害した。
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 帝国皇女エウフラシア

「このような北辺の地まで嫁に来て、楽しみとて何もなく、夫は野蛮な武人でしかない。わたしの青春は、わたしの人生は、灰のように辛く苦くなってしまった」

育ちの違い、宗旨の違い、また男児がなかったこともあって、この二人の仲はあまり円満ではなかったという。
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ヒシングは内政でも問題を抱えていた。
先代をよく支えたイングリア伯グズムンドを家令(steward)から降ろし、祐筆(chancellor)に任じようとしたところ、この人事に不満であったグズムンドは領国に引きこもってしまった。
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 怒れる忠臣グズムンド

グズムンドはあきらかに祐筆向きの人材だ。だが彼には家令として勤めあげた年月への誇りがあった。ヒシングはそんなグズムンドの心情に考えが及ばなかったので、ただ怒りに怒りをもって答えるのみだった。

この件は結局、弟のマッツを祐筆とすることで落着した。この一件でわかるように、ヒシングには人の心を理解しないところがあった。
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 万人の友バルド

そんなヒシングにも親友はいて、ナルヴァ家のバルドとは特に親しく交わっていた。バルドには友人が多く、ヒシングはバルドの多彩な交遊にかなり助けられていたといえるかもしれない。
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ヒシングはバルドとよくチェスを指し、達人といえるまでになった。もともと軍を率いることは得意だったヒシングだが、この技能によってさらに磨きがかかった。
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さてヒシングは自分だけでなく他人にも厳しかった。主君であるルーシ大公ティヴァダルのもとを訪れたとき、あまりにその軍勢がぶざまであるのを見て、思わず大公を叱責した。

「このように野蛮な烏合の衆を率いておられるとは、まったくの恥ではありませんか。わたしに軍勢をお預けください。半年で叩き直してみせましょう」
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大公ティヴァダルはよくできた君主であったので、この叱責をいれてヒシングに軍を預けた。ヒシングの言葉にいつわりはなく、その仕上がりを見て大公はむしろ恩に着たという。
03
 さらにロストフ戦役のさなかで重歩兵運用を学ぶ

エウフラシア
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ある日、母后イングフリドがヒシングを訪ねてきた。

「おまえ、ちゃんとエウフラシアを見ているのかい。あの嫁を誘惑しようという男はたくさんいるんだよ。このあいだもわたしを買収してエウフラシアと会わせてもらおうという馬鹿者があらわれた」

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 誘惑者ポルフィリオス
 帝国の優雅と退廃を一身に兼ねそなえた遊び人だ

「それだけじゃない、あの嫁についてよくない噂を聞いた。おまえ、悪くするとあの女に殺されるよ」
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 弟マッツの嫁クリスティナによるヒシング暗殺計画
 共犯者になんと妃エウフラシアの名前が挙がっている

ヒシングは驚きあきれたが、冷静に対処を行った。
エウフラシアにはまるで他人事のようにクリスティナの陰謀の話をし、加担している身内のものがいるらしいと匂わせた。それでエウフラシアもすべてを察し、計画から手を引いた。
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また誘惑者ポルフィリオスに対しては決闘を挑んだ。しかし帝国からの返答はなく、面目を果たす機会は失われた。

この事件があってから夫婦の仲は決定的に悪くなり、もはや同衾も望めなかった。二人の間には女児1人があるばかりで、継承者には弟のマッツが不本意ながら指名された。
 
27
主の1163年、大公ティヴァダルはヒシングをキエフの宮廷に呼び、彼を宮宰に任じた。ヒシングとしては従士長の位を望んでいたのだが、それはかなわなかった。

大公ティヴァダルは言った。
「ロストフ戦役で国は弱り、いまや余の兵も3000を数えるばかりだ。リフランド公におかれては、ぜひ余を盛り立て、ふたたび強盛のルーシ大公国を実現してほしい」

そうまで言われてはヒシングも悪い気はしない。そこで彼はキエフへ移り、宮宰の任についた。やるべきことは山積していた。キエフのポジール地区をかけまわり、商人団や農民の陳情を毎日受けた。宿に帰ることもできない日々が続いた。

ある晩、宿としている北国商人の商館に帰ったヒシングは奇妙な感覚を覚えた。誰かがこの部屋に立ち入ったように思われたのだ。
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空き巣が入ったかと思い、身を固くしたヒシングの喉に腕がかけられ、ついでなにか布のようなものが巻きつけられた。布はすべるように首を締め上げてゆき……。
 
明朝、東方産の絹のショールを首に巻いて死んでいるヒシングが発見された。犯人はあとから明らかになった。ルーシ大公に対する反乱を計画していた『蜘蛛のヴィアチェスラヴァ』の手の者による犯行だった。
21
 蜘蛛のヴィアチェスラヴァ
 ボリソフ家の女当主


ヒシングがルーシ大公の誘いを受けて宮宰になっていなければ、こうして死ぬこともなかったかもしれない。しかし歴史に『もしも』はない。ビャルトラ家はこの当主の若すぎる死を受け止めるしかなかった。
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主の1164年5月、知らせがリフランドに届くとともに、ヒシングの弟であるラドガ伯マッツがリフランド公に昇格した。マッツは兄をあつく葬るよう命じた。