<前回までのあらすじ>
リトアニアやスラブの土侯と戦って少しずつ領土を増やしていくビャルトラ家。しかしルーシの地は、東方よりきたる大いなる影に覆われつつあった……。

ジールのこと
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ジールは先代ダグの妹セシリアの息子だ。
父親はラドガ系ビャルトラ家のアルフゲイル。
領国の管理能力を買われて公位についたのだが、その治世は暗く短かった。
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 リフランド公、短命のジール
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というのも、東方では馬の民の勢力がきわめて大きくなり、時代は暗さを増してきていたからだ。
大平原にあるビャルトラ家の飛び地サルパ領では独自に情報を収集し、これをバルト海岸のレミセレ城に送った。
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「キタイからやってきたタタールの兵は総計90000にのぼり、サーマーン朝の地からセルクランドへ攻めのぼらんとしています。その宗旨にかかわらず多数の王侯が立ち上がり、これを撃退する構えです」

ルーシ大公国とサーマーン朝とは交易上のつきあいがあったので、ジールの主君である大公ベーラも兵を出した。
そこでジールも戦線に加わらんと兵を集めたのだが……。
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ラドガの近くまで進軍したところで蛮族の襲撃があり、これを撃退するときにジールは重い矢傷を負ってしまった!
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そうしてそのままジールは亡くなった。39歳という若さだった。
公位は弟のヒシングが継いだ。

ヒシングのこと
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ヒシングは魅力的で、かつ勇敢な戦士だった。たくらみごとをよしとせず、常に公明正大な解決をはかった。

ヒシングが兄ジールの亡くなったのを聞いたとき、彼ははるかカスピ海のかなたにいた。大公ベーラにしたがってタタール人と戦い、敗走している最中のことだったという。

「タタール人は野火のごとく強い。彼らの通ったあとには何ひとつ残らない。彼らを押しとどめることはできない。我々にできることは主を信じ、領国の守りを固めることだけだ」
ヒシングは戦場からこう書き送らせている。
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タタールのカガンはボルジギン家のテムジンという男で、イスラームに帰依しその教えを広めるために戦っていた。きわめて有能な指揮官であり、キリスト教世界に太刀打ちできる者はいないと言われていた。

しかしそれでも祖国と信仰を守るため、キリスト教徒たちはテムジンを迎え撃たなければならない。東方辺境を守るキリスト教君主は二人。ルーシ大公ベーラと、女帝アサである。
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 ルーシ大公ベーラ
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女帝アサ(彼女はノルドの血を引いていた)はタタール人のセルクランド侵攻では動かなかったが、彼らがヴォルガを越えて帝国辺境へ浸透してくるようになると、聖戦を宣言し、諸国から兵を募った。
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 1233年のルーシ
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 1238年のルーシおよび大平原

だがキリスト教軍の奮戦もむなしく、1238年にはタタールの将スブタイの軍勢60000がついに黒海にまで到達。東方帝国のアラニア領はまるごと奪われ、リフランドのサルパ領はタタールの大海に浮かぶ小島のようになってしまった。
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ことここに至って大公ベーラは第2回遠征を諸侯に命じた。リフランド公ヒシングも新しくしつらえた全能者ハリストスのイコンを掲げて遠征に参加する。
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 スブタイ軍60000に対して大公軍9000では勝ち目がない
 リフランド軍を集めに集めてもせいぜい7000だ

タタール人に正面から当たっても負けが見えている。そこでヒシングは軍勢をたくみに動かし、敵主力が通過したあとの占領地を襲うことにした。神出鬼没の跳梁で背後をおびやかすのだ。
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 「主よ、ノルドの斧がタンタルキャにふたたび帰ってきた」 
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 名だたる騎士団もこの聖戦には参加していた
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主の1241年、ヒシングの活躍もあってタタール人の進撃の速度はゆるみはじめ、セルクランドへの侵攻は止まった。我々の勝利だ!

だがこの勝利の裏にはテムジンの死があった。タタール人たちはそのカガンが死ぬと故国へ帰り、戦士たちを弔う。決してその刃がなまったというわけではなかったのだ。
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カガン位を継承したのは息子のトルイという噂だ。
トルイが軍勢を再編成すればまた戦役が再開されるだろう……。

重圧のもとで
キリスト教徒たちの悪い予感は的中した。
主の1246年、トルイは再び軍を率いて西にとって返してきた。そしてコーカサス山脈を突破してアナトリアを横断し、電撃的に帝都を陥落させたのだ。
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 唖然

女帝アサはカガンに帝国を譲り渡し、トラキアの君候におさまった。このことはキリスト教世界を震撼させた。

女帝は最後の最後まで戦うと信じていたのに。
世界最強の帝国がこうまで脆いとは誰も思っていなかったのだ。
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 帝都に君臨するトルイ・カガン

タタールの進撃速度はあまりにも速く、この知らせがルーシに伝わったとき、人々はまだ戦役が再開されたことすら知らなかった。

人々はさまざまな反応を見せた。
「われらの帝都が奪われてしまった!」
「すぐにルーシも襲われるぞ!」
「いや、こんどこそセルクランドを陥すために南進するだろう」
「やつらは地中海沿いに進撃しローマが狙われるかもしれない」

だがサルパ領からはタタール人の軍勢について詳細な報告が届いていた。ヒシングは報告を吟味し、こう結論した。
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「タタール軍の現兵力は40000。うち増援も26000としだいに痩せてきている。あと1回の大戦役を行えば、おそらく総兵力20000にまで落ち込むだろう。広大な占領地を維持することはできず、遠くない将来この帝国は瓦解する」
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 ルーシ大公ルスラン
 この危急時に外交のセンスがまったくない大公が選ばれてしまった
 諸侯は進んで彼を補佐した

そこでヒシングはトルイ・カガンに使者を送るようルスラン大公に勧め、ルーシがタタールに敵対する意思がないことを示させた。次の大戦役を避けることさえできれば、生き残るチャンスが出てくるのだ。

この目論見はうまくあたり、ヒシングの存命中にタタールが西進してくることはなかった。ひと安心である。 
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さて、ヒシングも遠征と外交ばかりしていたわけではない。
主の1249年、ルーシの中に飛び地状に存在するペシュト領のひとつヴィテフスクを回収し、その領地数を14に増やした。(うち直轄地5)
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またヒシングは長男のアルフゲイルに継承させることと定め、生前贈与としてヴィテフスク領を彼に任せた。
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 ラドガ・ビャルトラ家とは微妙な関係が続いている
 
もともとはジールの息子アルングリムに継承予定だったのだが、彼が早逝してしまったのだ。アルングリムの子バリドはスラブの風習に染まっており、ヒシングとの関係もよくなかった。
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主の1254年冬、ヒシングは思い残すことなく帰天した。人々は彼とともに大平原で戦った日々を思い出し、剣で盾を打ち鳴らす古習をもって彼を送った。

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 参考)1249年のキリスト教圏