<前回までのあらすじ>
16歳でクールラント公となったアーレ。領地を広げるために試行錯誤したが、その策はいずれも実を結ばず若くして死んでしまった。アーレの魂に安らぎあれ。
 
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主の1293年、ビョルンは20歳でクールラント公となった。先代アーレには男児がなかったのでバリドの孫であるビョルンに公位が回ってきたのである。ビョルンには妃がいたがすでに亡くなっており、女児2人があった。

ビョルンは怒りっぽく、しかし足るを知る君主だったと言われている。とにかく武に秀でた青年で、兵士たちをおのが手足のように動かした。逆にあまり外交の才はなかったようだ。 

領国を拡大するにあたって、ビョルンもまた先代アーレと同じ悩みを抱えていた。法律や情勢の関係上、内にも外にもいくさで領土を獲得することが難しいのだ。

そうなると望みは継承による獲得ということになる。女性君主と結婚して、その子供に両方の領地を継がせようというわけだ。
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そこで再婚候補に上がったのはペレヤスラヴリのオドラ女公だ。

オドラはマジャルの名家、フンザハル家の末裔。
彼女はエストニア公位も持っているので、ナルヴァ家からエストニア3領を剥ぐのに役に立つ。
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 1295年の南ルーシ
 サルパ(ナルヴァ家領)とタンタルキャ(大公領)はかつてはビャルトラ家のものだった……


またペレヤスラヴリはルーシの南部に位置し、ビャルトラ家悲願の南進が可能となる。ただし公都ペレヤスラヴリは度重なる遊牧民の来寇によって、何ひとつない平原と化してしまっている。ここを再び栄えるようにするには多額の投資が必要だろう……。
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 砦だけは再建されたが、かつての麗しき古都は見る影もない

フンザハル家はフンザハル家で女公の生き残りをかけていた。なにしろペレヤスラヴリは見かけは大領だが、動員数は1000を切っていたのだ。なにか強力な後ろ盾が必要だった。

主の1295年、もろもろの条件が取りまとめられ、ビョルンとオドラはめでたく婚約した。
 
南進開始
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 1290年代のロマニア
 当地ではタタールの支配は短いものだった

タタール人の帝国は崩壊しつつあった。
彼らの騎兵は遠いカスピ海のむこうを右往左往しており、めったに西に現れることはなかった。 そのあいだロマニアでは数多くのギリシア貴族が立ち上がり、またルーシ大公もタンタルキャを確保した。

乗り遅れまいと、ビョルンはクリミアのタタール領テオドシアに照準を定めた。なんとこの地にはいまだにノルド人が住んでいるのだ。タンタルキャの喪失以来287年が過ぎても、ノルド人は北の習俗を忘れはしなかった。

ビョルンはクールラント兵7000を率いてルーシを南北に縦断。東西を駆け巡る諸軍のすきまを縫って、テオドシアに侵攻した。

人々は驚いた。
同盟軍も騎士団もなく、たったひとりであの大タタールに挑むというのだ。
「無謀のビョルン」の二つ名の由来である。
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だが時期が悪かった。
このころルーシ大公はもうひとつのマジャル人の国ペシュト朝と戦端をひらいており、ペシュト朝同盟国のモラヴィア王国、トレビゾンド公国をも敵に回していた。大公の敵はビョルンの敵でもある。

テオドシアはちょうど黒海からルーシへ上るルートにある。トレビゾンド軍の進軍路というわけだ。これはまずい。ビョルンがそれに気づいたときはもう遅かった。

1300年9月5日、テオドシアの町を包囲していたクールラント軍は急襲を受けた。
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最初はタタール軍の残党かと思われた。
しかしこれを追撃するうちにクールラント軍は見事に釣り出され、待ち構えていたトレビゾンド軍の戦列に迎えられたのだ。

空をおおう矢の群れ。
潮騒のごとく大気に満ちるギリシア人の喚声。
はるかに装備がよく、戦術も洗練されたロマニアの兵に、北辺の1公領がかなうはずもなかった。
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 1300年9月5日、テオドシアの惨劇

そうしてクールラント軍は全滅した。
文字通り、1兵たりと帰ってこなかった。
650のハスカールたちによる公親衛隊も全滅。

ビョルンだけが生かされ、身代金と引き換えに解放された。おのが軍隊を全滅させられ、自分だけが生き残った一軍の将の気持ちはどんなものだろうか。記録にはそれは記されていない。
 
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帰路、ビョルンはペレヤスラヴリにてオドラ女公との婚姻をとりおこなった。想像がつくように、式はきわめて湿っぽいものとなってしまった。

この時代、ビョルンは北のレミセレと南のペレヤスラヴリを行き来する生活を送っていたことがわかっている。というのも、1302年マルコポーロがペレヤスラヴリを通った際に彼と接見した記録が残っているからだ。
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ビョルンはタタール人の帝国について興味を持ち、いろいろとマルコに質問したらしい。マルコによれば、タタール人の支配はカスピ海の向こうでもほころびつつあり、通商路の安全が大いにおびやかされているという。
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タナのステップルート、トレビゾンドルート、アンティオキアルート、いずれもタタールの混乱を反映して通交が止まっている。一方、アレクサンドリアルートが止まっているのは海賊の跳梁によるものだ。
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ビョルンはタタール人のカガンの持つ兵力についても聞いた。マルコによれば現有戦力は19500とのこと。

クールラント公領が独力で立ち向かうには少し厳しい数だが、広大な戦線をこの19500人で支配するのもまた難しい。態勢を立て直し、タタール人の帝国を切り取るチャンスはまだある。
 
ペレヤスラヴリとタナ
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つらい中にもうれしいことはあるものだ。
ビョルンとオドラの初子が産まれたのである。
彼はビョルンの父の名を取りヴァシリイと名付けられた。

翌年オドラは女の子を生み、こちらはアルフリズという名をもらった。
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しかし主はビョルンにあらたな試練を与えたもうた。
1304年4月、妃オドラが肺の病いで死んでしまったのだ。
あっけなかった。

ビョルンは深い悲しみに包まれた。
短い結婚生活だったが、二人は愛し合っていたからだ。
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母を失ったアルフリズもたいそう悲しんだ。
父親として娘になにかできることはないか。

ビョルンはアルフリズにペルシアの産だという銀の鳥を買い与えた。しかしこれは逆に不機嫌にさせてしまったようだ。失った母の代わりになるものなどない、というかのように。
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さてこうなると、継承の状況がまた変わってくる。
まずは幼児のヴァシリイが母オドラの公位を継承し、ペレヤスラヴリ公になる。
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 ヴァシリイはクールラント公にはなれない

そうするともうヴァシリイはクールラント領内の者ではなくなる。そしてクールラント公位の継承選挙ではきわめて不利になってしまうのである。
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かわりに諸侯の支持を集めたのがヴィテフスク分家のボトゥルフだ。このままでは彼がクールラント公となり、ヴァシリイのペレヤスラヴリ公領との統合は果たされない。

ボトゥルフはビョルンのもとで尚書長をつとめ、人間的にも能力的にも不足がない男だ。しかし、やはり父親としては息子ヴァシリイに継承させたかったようだ。
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ペレヤスラヴリを手に入れられない可能性が高まったので、別の南進拠点を取得する必要がある。白羽の矢が立ったのはタナ領だ。ここはステップルートの西の端であり、(ルートが平和であれば)高い収益が見込める。
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ここを治めているのはナフというキルギス人土侯だ。ごく最近になってタタール人の支配から自立した。同盟国もなく、これは狙い目だ。
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はたして遠征は成功裏に終わった。
ナフは追放され、ノルド人の農民がタナへと移住した。
こうしてビャルトラ家は再びアゾフ海の岸辺に帰ってきたのである。
 
大公のそばで
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 無謀のビョルン、33歳

このころビョルンはキエフにいることが多くなっていた。
ルーシ大公の摂政・従兵長として兵を訓練するという務めがあったからだ。
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 「我が兵はそなたの勇猛さを学び、さらに強くなっておるようだ」

ルーシ大公コルネール3世はビョルンをあつく信頼していた。
それでビョルンも大公のためによく働いた。

また、ビョルンは決してペレヤスラヴリ継承をあきらめてはいなかった。キエフから北へ帰るたび、諸侯らに贅をこらした贈り物をすることで息子ヴァシリイへの支持を増やそうとした。
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 「贈り物はありがたくいただきます。
  近いうちかならずこの礼はいたしましょう」
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数年を経てこの試みは成功した。
ヴァシリイが次のクールラント公になることに、諸侯はようやく賛成してくれたのだ。これでクールラント公領とペレヤスラヴリ公領は息子の代で統合されることになる。
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ビョルンは内政についても精力的に活動した。
あたらしく得たタナ領に商館を建設し、砦を築いた。ルーシと黒海、ステップを結ぶタナは急速に発展し、近頃ではヴェネツィア商人が訪れるようになった。

すべてが順調だった。順調すぎるといえたかもしれない。
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主の1312年4月、ビョルンは恐ろしい知らせを受け取った。息子ヴァシリイが……わがビャルトラ家の期待の星であるヴァシリイが暗殺されたというのだ。

下手人はエルジェーベト・ボリソフというリトアニア王国の女で、ビョルンの手が及ばない。いったい何のためにこのような凶行に及ぶ必要があったのか。

オドラに抱かれた息子の顔が目に浮かぶ。
罪のない幼子を、よくも、よくも……。
ビョルンは悔しさに夜も寝られなかった。
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ヴァシリイが死んでしまったので、こんどは娘のアルフリズがペレヤスラヴリ女公となる。

ビョルンには娘が4人いたが、彼はそのうちアルフリズを一番溺愛していた。まだ小さいアルフリズを現地へ送り出すビョルンの胸は張り裂けそうだったという。
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1313年6月、こんどは尚書長のボトゥルフが死んだ。
皮膚が黒ずんで高熱を出す謎の病だ。
ボトゥルフはうわごとを言いながら、苦しんで死んだ。
おそろしい……おそろしい……。 

この病気は領内にあっというまに広がっていった。
城門は閉ざされ、用事のない者の入城は拒まれた。ろくに祈祷もあげられずに人は死んでいき、死体がそこここに積み重なった。人々はこれを恐れて『黒死病』と呼んだ。
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11月には、シレジア公の妃となっていた長女グズルンも死亡。
ビャルトラ家では2人目の黒死病死者となった。
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この疫病、どうも去年の夏から秋にかけて黒海周辺のどこかで発生したらしい。地図におこしてみれば、同心円状に感染地が広がっているのがわかる。
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主の1314年1月、ついにルーシ大公コルネール3世も黒死病に倒れた。

「まさかこのような死に方をするとは。ビョルン、そなたは長生きするがよい。これまでの忠勤に感謝するぞ」
 
そう言い残して大公は死んだ。
そして次の大公として選出されたのは……ビョルンだった!
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 これには驚いた

たしかに摂政として国政にかかわり、大公には忠義を尽くしてきたが……。ビャルトラ家と大公国のためになすべきことをしてきただけである。大公選挙にも興味がなく、諸侯からそこまで信頼されているとはまったく思っていなかったのだ。

しかし預かってしまったものはしょうがない。
コルネール3世の遺志を継ぎ、大公国のために何ができるか試してみようではないか。