<前回までのあらすじ>
ペレヤスラヴリ公グレゲルには5人の男子があったが、そのうち誰と誰が本当のグレゲルの子だったのか、誰にもわからない。グレゲルはかつて帝国に横取りされた一族の因縁の地タンタルキャを攻め、これを取り戻した。
 
カインとアベル
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「兄弟とは一番近い他人」とはよくいったものだ。
ビャルトラ家には5人の兄弟がいたが、それぞれがそれぞれを憎み、喧嘩が絶えない。かれらの少年時代に平和はなかった。

5人のうちでもっとも仲が悪かったのは長男ケティルと次男のダンだ。
ケティルは父親グレゲルから期待され、若くしてケルソン領を与えられたが、貪欲で妬み深かった。ダンは貞潔、節制、勤勉、忍耐の四徳を備えていたが、女を愛することができなかった。

2人はお互いの性格をあげつらい、激しく敵対した。その有様はまるで聖書に出てくるカインとアベルのようであったという。
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 ペレヤスラヴリ公ダン

結局、父親が後継者として選んだのはダンだった。
期待にもかかわらずケティルが凡庸な青年に育ってしまったからである。一方、ダンにはビャルトラ家が欲してやまない領地経営の才があった。

このことはケティルをひどく怒らせ、彼は生涯父親とダンを許さないと誓った。
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「公たるもの、領国をめぐり民の声を聞かねばなりませぬ」

父親の友人でもあったゼムガレ伯キャルタンがダンを支えた。ダンはキャルタンの助言によって何度も窮地を救われている。

ペレヤスラヴリ公となってすぐに、ダンは大公オスカールの命にしたがいデルベントへと出征した。そそり立つカフカースの山々……当地ではタタール人の残党がいまだハーンに忠誠を誓っていた。
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 遠いカフカースで軍を率いるダン

この地でダンはいくさの経験を積んだ。
彼のノルド兵団は決して撤退しないことで知られ、また山際のせまい隘路を利用して戦った。その勢威はおそるべきもので、当地ではいまだにノルドといえば鬼や悪霊の仲間を指すという。

ところがある日、戦線にあるダンに故国のキャルタンから急使が送られてきた。
「わが領地ゼムガレ侵攻さる。敵はヴェンド皇帝」
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ヴェンドはリトアニアと大モラヴィア王国が合邦してできた大帝国だ。東方帝国なき今、キリスト教諸国で唯一の皇帝を戴く国となっている。

リトアニア王国時代よりたびたびゼムガレ領は係争地となってきた。ルーシ軍の主力が遠いカフカースへ出征しているあいだに、この係争に決着をつけるべく西のヴェンドが動いたのだ。
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 ヴェンド皇帝、破門者ヴィタウタス

皇帝ヴィタウタスは25000という大兵力を有している。ルーシ全土の併呑を狙っているという噂もある。きわめて危険な敵といえる。
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 ルーシ大公オスカール
 ケティルあるいはダンの真の父親ではないかという噂も

これを迎え撃つは大公オスカール。
快楽主義者で武にはうといと思われていたオスカールだが、意外にも判断は素早かった。大公国軍主力をカフカースから呼び戻し、一世一代の大返しを実行したのである。
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 北方のペレヤスラヴリ軍6000とは別に、ダンはルーシ軍主力を指揮している

両軍はペレームィシュリ近郊の森で睨み合った。
やがて日が高くなり、両軍は接触した。

ダンの兵士たちは喚声をあげて突撃した。14世紀も終わろうというこの時代になってなお、ノルドの喚声は敵をひるませた。槍がきらめき、剣が血しぶきを散らした。彼らの通ったあとは森の下草が血に染まった。

戦いは数日続いた。
双方の兵力は互角だったが、北方からの大公国軍援軍が到着すると、一気に形勢は傾いた。ヴェンド軍はちりぢりとなって逃げ、大公オスカールは勝利をおさめた。

さらにいくつかの戦闘が戦われたのち、主の1397年に講和が成った。皇帝ヴィタウタスは敗北を認め、ゼムガレ領は守られたのである。
 
帰還
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主の1398年春、ダンは宮廷をペレヤスラヴリからタンタルキャに移した。

かつてはルーシと帝国を結ぶ地として栄えていたタンタルキャも、ギリシア人とタタール人の長い支配のもとでさびれてしまっていた。今ここに住んでいるのはタタール人の馬飼いだけだ。

兵1400を有するペレヤスラヴリから兵700そこそこのタンタルキャへの移動には異論も多かったが、ダンは満足していた。

不屈のレフィル以来、390年ぶりのタンタルキャ帰還を果たしたのである。これで先祖への面目も立つというものだ!
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 帰還者ダン
 カフカースの戦訓(unyielding、narrow flank)を持っている

宮廷の移動と同時にダンはタンタルキャ公位を宣言。
いにしえの男たちが血と汗で築いた称号が、再びビャルトラ家のものとなった。以後、グレゲルの子ダンは『帰還者ダン』の二つ名で呼ばれた。
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しかしこの帰還が問題のもととなった。
ケルソン伯ケティルは少年期から南で暮らし、地元貴族の支持もあつかった。ケティルは「タンタルキャ領もわがものに」と望んでいたらしい。

ところがそこにダンがやってきた。
ペレヤスラヴリ公位を取った上、いまさら後からやってきてタンタルキャ公を名乗るとは! ケティルが激怒したのも無理はない。
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ケティルは派閥を立ち上げた。
「ビャルトラ家の継承権は年長者に与えられるべきだ……そう、俺のような」
ダンは何度も派閥の解消を兄に依頼したが、ケティルがその頼みを聞くことはなかった。

ビャルトラ家の長男次男の争いは、いまや感情だけでなく政治的な問題になってしまっていたのである。
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 ケティルはタンタルキャの請求権捏造を開始
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同じ頃、ケティルが洗礼者ヨハネの指を持っていることが発覚した。ダンもビャルトラ家伝来の聖遺物を持ってはいるが、無名の聖人の爪というつまらぬ品だ。

あんな貴重なものをケティルはどこから手に入れたのだろうか?
ビャルトラ家長が持っているべきではないか?
ダンの心にしだいに黒い霧が忍びこみ始めた。
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ダンはガウジエナのジーレを呼び、こう命じた。
「兄を亡きものにせよ」

こうすることで、「派閥」「領地」「聖遺物」の3つの問題が一挙に解決するのだ。何も間違ったことはしていない、何も……。
 
兄との戦い
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ケティルの反応はすばやかった。
すぐにどこかの修道院に身をかくし、自分の身を守ったのである。

どこからか情報が漏れたのかもしれない。
ダンはガウジエナのジーレを詰問したが、この老人はただ首を横にふるだけだった。
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そうこうするうちにケティルは次の手を打ってきた。

「年長者相続を受け入れるか、あるいは反乱か。
ダンよ、おまえの好きな方を選べ」

北部の伯たちが中心となってケティルについていた。
だがここで引き下がるわけにはいかない。
戦争だ。
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しかしダンの焦りが不運を招いた。
タンタルキャへ主力を集めている最中に、たまたま通りかかったタタール人の軍勢に遭遇。ダンの軍勢は壊滅してしまったのである。

知らせを聞いてダンは激怒した。
もはや兄に戦争で勝つことは望めない。
こうなっては何が何でも暗殺を成功させるのだ。
兄よ、ここで死んでもらうぞ!
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 暗殺失敗
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もはやどうしようもない。
ダンはケティルと北部の伯たちの要求を認めるしかなかった。

こうしてタンタルキャ公位は年長者相続となり、ケティルが次の公となることが確定した。ダンは地団駄をふんで悔しがった。
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 第一相続者ケティル
 ペレヤスラヴリとタンタルキャの分割を避けるため、ペレヤスラヴリ公位を破棄、タンタルキャ公に集中
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戦争に勝って安心したのか、修道院に隠れていたケティルが表に出てきた。いまこそ殺してやる!

ケティルが死ねば継承は弟のスヴェルケルにいくが、それでもかまわぬ。こいつにだけは公位はわたさない。

老キャルタンは不毛な兄弟の争いをとがめたが、ダンは聞かなかった。しかし暗殺は失敗しつづけた……。
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 1405年、初子グレゲル誕生
 しかしもはやこの子に公位がいくことはない
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 酷薄のスヴェルケル
 ダンの弟、四男

「兄上、提案があります。ガウジエナのジーレを解任し、私をかわりに密偵長にしてくれませんか。はかりごとには自信があります」

思わぬ弟からの助太刀に、ダンの口から感謝の言葉がほとばしり出た。
 
「ありがたい! よし、頼んだぞ。かならずケティルを亡きものに。成功した暁には公位はおまえのものだ」

スヴェルケルはうすく微笑み、部屋を退出した。
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 危機を感じたのかケティルは再び身をくらました

信仰の道
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「主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え」
「主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え……」

タンタルキャの城付礼拝堂で、ダンはひざまずいて祈りを唱えた。
彼はこのところ急に信心深くなったという噂だ。聖バシレイオス兄弟団に加入して人が変わったようになったとも言われている。

「別に神の道を歩みたくなったわけではない。たびかさなる暗殺失敗による悪評をそそぐためだ」

ダンは自分ではそう思っていたが、意外にも信仰の道は彼の性格に合っていたようだ。

帝国なき今、聖バシレイオス兄弟団は正教信仰のとりでとなっていた。この兄弟団に属することで名声が得られ、また自己を探求することは魂の平安にもつながる。
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薔薇園で薔薇について学ぶなどの奇妙な修行もあったが、ダンは満足していた。

「神の神秘はその被造物にも反映される。そのもっとも美しい形が薔薇の花だ」

そう言うとダンは一輪の薔薇を手にとり、かぐわしき香りを嗅ぐのだった。
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 メガロスケモスのイシュトヴァーン
 聖バシレイオス兄弟団の指導者

「ダンよ、巡礼におもむくのだ。聖地で祈りを捧げることによってそなたの罪はすすがれることだろう。徳を積めば兄弟団での地位も上がる」

しかしこれには老キャルタンが反対した。
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 老キャルタン
 一生をビャルトラ家のために尽くした

「今はその時ではありません。あなたが巡礼の旅に出ているあいだによからぬ事をたくらむであろう者が大勢いる。わたしは巡礼には反対です」

ダンは悩んだが、巡礼の道をたどることにした。
一度その目で聖都を見てみたいと思っていたからである。

「イェルサレムで何を祈ろうか……そうだ、兄ケティルを暗殺しようとしていることについて赦しを得なくては」

ダンはあくまでケティルを殺すつもりで、この件について悔い改めるつもりはなかったようだ。
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主の1408年、ダンは海路パレスティナへたどりつき、広く聖地を見て回った。

「ビャルトラ家の人間でイェルサレムまで来た者はそう多くはない。よく見聞きして、何でも記録していこう。そうして帰ったら巡礼記を出版するのだ」

ダンは半年聖地にいて、それからヴェネツィアの船に乗った。船はキプロスを通り、ロードス、スミルナ、帝都を経由して黒海を北上した。そうして明日にもクリミア半島の峰々が見えようかという日……。

船室でダンの死体が発見された。
ナイフで喉をかき切られていた。
犯人は見つからなかった。
 
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こうしてダンは死に、ケティルがタンタルキャ公となった。
 
誰もがケティルの関与を疑った。
弟が兄を殺そうとしているとき、兄もまたあらゆる手段をもって弟を殺そうとするのは当然ではないか?
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 四男スヴェルケルがケティルに寝返ったか?

カインとアベルのようだと言われていた兄弟の争いはこうして終結した。結局のところ、兄がすべてを手にいれたのだ。