1615年1月18日
巨摩郡の決戦
甲斐国をめぐる幕府と扇谷上杉氏との戦争
越後上杉氏は衰亡してしまっている
そのころ、東国での戦役は大詰めを迎えていた。
公儀の軍勢は甲斐国巨摩郡で上杉軍を破り、甲斐は公儀のものとなった。
いくさの怪我で伏せっておられた公方盛政様がなくなられ、長子の孝容様が還俗して公方になられたのもこの時期だ。
依然、六角氏の動員力は大きい
緑色は伊勢氏の動員
戦役を終えて京の都に帰ってくると、なにやらさわがしい。それというのも近江守護の六角殿が西国征伐を命じられ、その軍勢の出立のさなかであったためだ。
そう……六角殿もまた公儀の覚えめでたく、大兵力を擁する大身だ。わたしがかねてより考えていた北畿内の征服にあたっては十分に注意せねばならぬ相手だ。
しかし六角殿は西国へ向かう途上、病を得て急死してしまった。残されたのはいまだ幼少の六角昭義だけだ。これを好機とみて、わたしは娘のゆみを昭義殿に嫁がせることにした。
六角昭義と伊勢ゆみの婚約、同盟
こうなれば、しぜん北畿内におけるわたしの矛先は絞られてくる。若狭武田氏だ。
武田氏は長年公方様の忠実な臣下で、これを討つことには危うさもある。しかしいま公儀は西国征伐でてんてこまいだ。誰も異を唱えるものもなく、わたしは遠敷郡をわがものにすることができた。
数年後、2度目の若狭合戦でわたしは丹波国何鹿郡を編入し、この方面での伊勢氏の勢力を確固たるものとした。若狭で得た領地は息子の貞満と貞政に与えた。
元和4年、公儀は大内氏を敗退させ、山陽山陰の大部分を回収した。
わたしは西国征伐にはまったく関わっていなかったものの(それどころか私戦にかまけていた)、公方様の覚えは依然めでたく、幕臣として、また畿内をおさえる有力な守護として伺候しつづけていた。
有力家臣3位につける
1位は泣く子も黙る畠山殿、
2位は管領伊勢貞持(所領は1郡のみだが本家に家格で勝る)
それでもいささかの後ろめたさがあって、わたしは来たる細川征伐には参加することにした。
讃岐合戦
元和6年7月、わたしは兵20000を率いて讃岐へわたり、これを制圧した。当地の国人らは城を包囲されると我先にとこちらへ降ってきたので、楽ないくさだった。
1623年の伊勢家所領
狙っていた淡路と阿波は六角氏に取られてしまった
寛永7年には伊予合戦をこなし、わたしは細川殿から伊予国を奪った。同盟相手の六角昭義殿はこの戦役に前後して播磨、備前、美作を抑えたようだ。なかなかやる。
老境にさしかかった義詮と妻たから
義詮は作庭家などさまざまな属性を帯びている
管理値を地味に上げてきたので直轄領8に耐えられるようになった
管理値を地味に上げてきたので直轄領8に耐えられるようになった
たからよ、聞いてくれ。
このころからいくさに出るのがつらくなってきたのだ。
馬に乗るのがつらい。刀をふるのがつらい。若いころはあんなに楽しかった遠乗りもいまや苦行だ。
わたしは老いつつあった。
そろそろ継承のことと向き合わねばならない。
わたしは伊勢貞義に家督を譲る意向を固めていた。
彼は先の管領、伊勢貞純の子だ。彼にはわが娘むつみを娶せ、盤石の体制だと思っていた。管領家と山城伊勢家をつなぐ一助になれば……。
だが貞義はわたしより先に死んでしまった!
すでに60を越していたのだ、なにも不思議はない。だがわたしの計画は大きく狂ってしまった。
祐筆足利昭義
先代に続き、義詮の無二の友人でもあった
「家中の意見を聞いてみてはどうでしょう」
わが祐筆昭義の意見をいれて、わたしは伊勢家の目立った者を京の都に招集することにした。
「義詮殿の息子、貞満殿が家を継ぐにふさわしい!」
「いやそれなら貞政殿だ!」
議論は紛糾してしまい、結論が出ない。
軍目付、鳳至郡の伊勢義敦
伊豆伊勢家の当主としてよく本家を支えた
伊豆伊勢家の当主としてよく本家を支えた
「ええい、こうなってはくじで決めようではないか。神慮はくじにこそ現れるというぞ」
そこで集った全員がくじを引いたところ、伊勢貞材という男に当たりが出た。貞材は4代目貞雅の孫にあたる者だが知る者とてない。親の貞詮とともに摂津で暮らしてきたようだ。
みな一様に押し黙ってしまったが、決まったものはしかたない。次代は貞材でいくということに決まった。はたして大丈夫だろうか……。
たからよ、近ごろ寺によく通うようになったのはそなたの勧めがあってのことだ。老い先短くなって、おのれの罪業を償いたいという願いにとらわれるようになった。
しかし生来の冷笑癖がたたって仏門での昇進は望めないと告げられた。しかしそれでも構わぬ。心の平安を得られるのならば。
8郡を継ぎ、西に東にと駆け回り、子をたくさん育て、公方様に仕えつづけた。思えば長いようで短い一生であった。
たからよ、そなたがつねにそばで助けとなってくれればこそ、わたしはこれまでやってこれたのだ。深く礼を言うぞ。これでわたしの話は終わり、あとは武士らしく潔くくたばるだけだ。
たからよ、そなたがつねにそばで助けとなってくれればこそ、わたしはこれまでやってこれたのだ。深く礼を言うぞ。これでわたしの話は終わり、あとは武士らしく潔くくたばるだけだ。
義詮、69歳で死亡
残念ながら北畿内王位を得ることはできなかったが、
若狭の大部分と讃岐、伊予を得た
継承は予定通り貞材に
次回、貞材が語る
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