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 北畿内の大大名、伊勢貞材
 代替わりと同時に王位を宣言した

俺は貞材。4代目貞雅の孫だ。
まつりごとには関わらず、ずっと摂津で暮らしてきた。
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寛永12年、俺は伊勢家の家督を継いだ。
なんでもくじ引きで決まったのだそうで、京に上ったとて、まわりは俺のことを知らぬ者だらけだ。
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俺は兄の春義に助けを求めた。
「兄者、俺に与えられたのは広大な領国だ。
とても一人で治めきることなどできぬ。
どうすればよいと思う?」

「そうだな、有力な国人を諸国の守護に任じてはどうだ。たとえば、俺に讃岐を与えるとか」

「ははは、兄者は冗談がうまい」

「冗談ではないぞ。山城は伊勢家の軍勢の源であるからお前が保持する必要がある。重代の領地である三河もそうだ。となれば、お前が手放すことができるのは讃岐、伊予、摂津ということになる。それぞれに領地を持つ信用できる国人を昇格させて守護とするなら、讃岐は俺だ」

「たしかに」
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 讃岐守護となった伊勢春義
 完全な信頼を得ている
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俺は同じように摂津国を妻ことぶきの弟、義晃に与えた。
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また一族ではないが、名門赤松家の裔である氏満に伊予国をまかせることにした。彼らはみな俺に恩義を感じ、よく支えてくれた。これで領内の体制は盤石となった。

鎮西征伐
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さて、政所執事として御前沙汰に出た俺は、ある論争に巻き込まれた。
「誰が鎮西を攻めるか?」というものだ。

西国でいまだ公儀に服さず残るは大内氏、島津氏のみ。
これを誰が討つかという話だ。
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畠山殿と六角殿は領内を治めるのに忙しい。
そこで俺が手をあげたが、申次の周防守護武田頼景が待ったをかけてきた。彼は豊前と肥前に領地を持っており、そのまま鎮西全土を保有せんとする野望を持っていたのだ。

「しかし武田殿は大内殿との和約がまだ効いているのではないか?」

俺がそう言うと、頼景はいかにも悔しそうな顔になった。いかな西国の大大名といえど、和約を破るのは気がひけるらしい。そこで俺が大内氏に宣戦し、鎮西を平定することになった。
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寛永13年2月15日。
俺は東谷の合戦で鎧袖一触、大内軍先鋒を下した。
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それからまもなくして、日向と肥後を領する大内氏の臣高鍋氏が当方に寝返った。俺は労せずして鎮西の半分を手に入れたのだ。
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 1637年1月16日
 行橋の合戦

翌年の1月、俺は遅れてやってきた大内軍主力を打ち破った。この勝利は決定的だった。というのも、この戦いのあとで博多の商人どもがこちらに寝返り、対馬を除く大内領のすべてが公儀に帰順したからだ。
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 あらたに臣下となった博多町衆の大年寄、河上宗竜
 あまり良好な関係とはいえない

もっともこの戦いで俺は敵の突撃にひるんで退却し、臆病者の汚名を着ることとなってしまったが……。いや、いくさに勝てばよいのだ。

こうして公儀は鎮西のほとんどを領することとなった。残るは島津領だが、これについては俺は手を出さぬ。日向の高鍋氏が自分で攻め取るだろう。
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その年の10月、俺は畿内へ引き上げがてらに、讃岐国豊田郡を領する同族の伊勢義明を攻めた。彼は管領位を有しており、また伊勢家の家長としての家格を保持していたのが気に入らなかった。

いくさはすぐに終わり、長らく名のみのものとして続いてきた公儀管領はついに終焉を迎え、伊勢家首位は俺のものとなった。義明は伯耆国の内藤篤良のもとへ逃走したという。
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 1638年、公儀政体を構成する4大勢力
 畠山氏、六角氏、伊勢氏、武田氏
 足利将軍の領地はわずかに鈴鹿・伊吹山周辺の数郡だ
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 44にしてなお美しい妻ことぶき

あのむかっ腹の立つ事件はこのころだったな……。
御所での宴の折、申次の武田頼景がわが妻ことぶきに色目を使ったのだ。名誉を汚された俺は激怒し、厳重に抗議した。しかし公方様はこれを却下、俺の思い込みだと諭された。
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しかし俺の目に狂いはない。頼景のやつめ、いつかかならず復讐してやる。

上杉攻め
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 1640年の東国
 上杉氏に従属する伊達氏は西蝦夷地までその版図を広げる

寛永17年11月、公儀と上杉氏のいくさが始まった。
ついにきたという思いだった。

蝦夷地にいたるまでの東国を支配する上杉家と公儀は、いつかぶつからねばならぬ定めだったのだ。日の本をひとつにするための最後の戦いがいま始まろうとしている。
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だが公儀に属する諸大名を震撼せしめたのは、京の都にいたはずの後田村帝が上杉氏のもとへ走ったという事件だった。
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 後田村帝
 対足利包囲網に参加していたので、参戦は予想されていた

「われわれは朝敵になってしまった!」

みなおろおろとするばかりでどうしようもない。
われらはもはや引き返せぬところにまで来たのだ。いまさら動揺してどうなる。俺は公方様の命に従って粛々と軍を集め、東国へ向けて発った。

12月12日、小田原で両軍は激突した。
公儀13000に対して上杉軍16000。しかし箱根の関の手前には公儀軍25000、遠江にはわが伊勢軍13000がいる。救援が間に合えば勝てる……!
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俺の一生の不覚だが、この一大決戦に伊勢軍は間に合わなかった。戦いには勝ったのだが、その場にいたかった。聞く話では何千という旗がなびき、矢は天を黒く覆い、そしてあまたの武勇が見られたという。俺は悔しくて夜も眠れなかった。

その後も戦いは続き、伊勢軍は後詰として鎌倉を占領した。
そして寛永19年、和議が結ばれ相模国は公儀のものとなったのだった。
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この戦いの最中、頼りにしていた兄の讃岐守護伊勢春義が病で死んだ。そこで妻ことぶきの弟、摂津守護義晃を後継者として指名した。
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その年の6月、東国に忍ばせていた間諜から報告があった。上杉喜久は小田原のいくさで負った傷が悪化し、前後不覚の状態にあるというのだ!
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畳み掛けるなら今だ。
俺はすかさず上杉家に対する請求権を持つ者を探させた。見つかったのは多胡秀則という男で、彼を京に呼び寄せ、西関東の支配権をかけて上杉氏に宣戦した。

同じことを考える者はいるもので、畠山殿も越後奪取を目標にほぼ同時に開戦していた。よかろう、競争だ。
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 1643年3月18日
 武蔵国に展開する伊勢軍28000
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5月23日、伊勢軍は輪王寺で上杉軍主力を捕捉した。離脱しようとする敵軍に追いすがる。騎兵による包囲の輪が縮められ、敵は逃げ場を失った。そうして俺は敵を完膚なきまでに殲滅した。
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京からの知らせが届いた。
博多の大年寄河上宗竜があやしげな動きを見せているという。遠国ゆえ出兵を免じたのが悪かったか。今は耐えてくれ、このいくさに勝つまでは。
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8月30日、俺が安中の合戦に勝利すると、流れが変わってきた。上杉氏の臣下、里見氏が寝返ったのだ。これにより俺は東国では初めての臣下を持つこととなった。
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以降も寝返りは続き、俺は常陸と武蔵をわがものとした。このころ畠山殿はすでに越後を攻め取っている。

寛永21年8月、越後からと武蔵からの二正面作戦に抗しきれず、上杉殿は関八州および信越を喪失、公儀に対して降伏した。和議の結果、上杉氏は相模、伊豆、下総、会津を安堵され、一大名として公儀に忠誠を誓うこととなった。
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 公儀の東国掌握
 陸奥の中北部は上杉氏に臣従している伊達家の領地
 上杉氏の従属国ではあるが公儀には服していない
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伊勢家はその所領として広大な北関東の地を得た。しかし新征服地の大名たちは新しい主に不満のようだ。
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 評定に参加したいらしいがポストが足りない
 名誉職と金で黙らせるしかない

そのほか、後継者とみている義弟、摂津守護の伊勢義晃とは良好な関係が続いている。俺をよく支えてくれたものだと思う。
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そして聞いてほしい、わが次男の親信のことを!
彼はまだ12だというのにもうそこらの大人より頼りになる。将来を期待せざるをえない。伊勢義晃には彼のことをしっかり頼んでおかなくては。
 
統一は目前だ
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9月、公方様は間をおかずに伊達領羽前を侵略した。伊勢軍もこの戦役に参加した。冬季の羽州での厳しいいくさ……。しかしこのいくさも翌5月には終わり、公儀は奥羽に足がかりを得ることとなった。
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正保元年7月、諸国統一を目前にして、畠山盛澄と六角昭義のいくさが勃発した。河内と摂津の欠郡をめぐってのいくさということだ。まったく何をやっているのか。
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公儀4大勢力のうち2人が争うとあって諸大名は動揺した。しかし俺は静観した。どちらにも伊勢家の姫が嫁いでいるし、片方に肩入れしてもろくなことにはなるまい。案の定、しばらくして白紙和平で終わった。
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翌年春、俺は風邪をこじらせ、床から起きられないようになった。それをよいことに博多の河上宗竜がまた策を弄しはじめた。俺は金を払って臣下の陰謀を止めるしかなかった……。

俺は自分の死期をさとり、本を口述することにした。題材は式部省の職掌についてだ。俺が死ぬのが早いか、本ができるのが早いか。スクリーンショット 2018-08-06 19.39.35 
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正保4年3月、武蔵の大名余瀬秀盛が上杉方に寝返るという不祥事が起きた。といっても当人はまだ幼少で、摂政のしわざだ。以前からあやしいと思って金を与えてあったのだが。俺はすぐに武蔵を攻めさせた。まったく楽には死なせてくれないものだ。
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8月16日、国府台の合戦で伊勢軍は上杉軍をからくも破り、それを見た余瀬秀盛はふたたび俺の元へと走った。不実な奴め。

それにしても、上杉方が勢力を盛り返してきているのには驚いた。伊勢義晃にも注意するよう言っておかなくては。
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正保5年2月、公方様はついに惣無事令を布告された。これよりのち、公儀のうちでの私戦は禁じられる。正保元年の畠山・六角のいくさにほとほと呆れておられたのであろう。俺には公方様の気持ちがよくわかる。

なんだと?
余瀬秀盛がまた裏切ったとな?
ええい、いいかげんにせよ。すぐに武蔵を攻めさせよ。いや、惣無事令が出ておっても関係ない、すぐにだ。攻めろと言ったら攻めるのだ!
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 伊勢貞材、63歳で寝床で憤死
 ひろく西国と東国を攻めとり活躍したが、晩年は封臣の動揺に悩まされた