燃えさかる都の夢を見ていた。
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皇帝の兵士たちは家々に火をつけ、食糧を奪い、
逃げまどう民の背中に槍を突き立てた。

炎上する宮殿の中で、死んだ父と兄が待っていた。
二人は剣を差し出して言った。

 「おまえは今までどこに隠れていたのか?
  剣を取れ、アルビニア。おまえの王国を取り戻せ」

そしていつもアルビニアはそこで目覚めるのだった。

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主の1204年、12月。
教皇インノケンティウス3世号令のもと第4回十字軍が行われ、
ラテン帝国が樹立された記念すべき年の暮れ。

アルビニアはイタリア半島の先にあるレッチェに帰ってきた。

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 アルビニア・ドートヴィル 元シチリア王女

ずっとドイツの城に囚われていたのだ。
陽光あふれるアプリアの風景を覚えていなくても無理はなかった。
そう、あのオートヴィル家の落日から数えてもう10年になる。

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オートヴィル家は北仏ノルマンディーの出である。
放浪騎士ロベール・ギスカールとその仲間たちが南イタリアを征服して以来、この地のイタリア人、ギリシア人、ムスリムを統べてきた誇り高きノルマン王家だ。

先のシチリア王タンクレードは勇敢な戦士だった。
シチリアを侵略する神聖ローマ皇帝と戦い、国を守った。
だがその死後、ふたたび皇帝が攻めてきてノルマン人たちは負けた。

皇帝軍はシチリアの王都パレルモを蹂躙した。
アルビニアの兄ギヨームは皇帝ハインリヒ6世の命令によって目を潰され、去勢され、不具者にされたあげく獄死した。そして父タンクレードの遺骸は墓から引きずり出され、首を落とされた。皇帝はオートヴィルの名誉を徹底的に踏みにじったのち、シチリア王冠を戴冠した。

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王女アルビニアは姉妹とともにドイツの城に囚われた。
しかし教皇インノケンティウス3世の骨折りもあって、16歳になると解放され、一族ゆかりの地レッチェに帰ることになった。

当時、皇帝と教皇は熾烈な権力闘争を繰り広げていた。ドイツとイタリアを支配する皇帝の勢力を削ぐために送りこまれた教皇の駒。それがアルビニア・ドートヴィルだったのだ。

ホーエンシュタウフェン家はしぶしぶ教皇の提案を受け入れた。
旧支配者オートヴィルへの寛大な扱いを示すという名目で、旧領の一部がアルビニアに安堵された。

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レッチェ。タラント。たった2つの伯領。
ノルマンディーからやってきた祖先たちのように、アルビニアはまたここから始めなければいけない。

謁見

「レッチェおよびタラント女伯、アルビニア・ドートヴィル!」

ナポリのカプアーノ宮殿、謁見の間。
触れ役が高らかに声をあげ、王の前にアルビニアを呼び出した。
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 「レッチェの忠勤を期待する」


わずか10歳のシチリア王。
アルビニアの大叔母コンスタンス・ドートヴィルとハインリヒ6世帝の息子だ。後見人であるインノケンティウス3世の裁定により、ドイツ王冠は叔父フィリップに、シチリア王冠はフリードリヒにと分割された。

フリードリヒは両手で剣を持ち、臣従礼をとりおこなう。
アルビニアは黙って頭を垂れている。
だがその拳は固く握られていた。
この少年は王位簒奪者であり、敵であり、血族の名誉をかけて滅ぼすべきホーエンシュタウフェンなのだ。

王に忠誠を誓うのはレッチェ女伯として当然の責務だ。
だがアルビニアは心の奥で決意していた。
ドイツ人を放逐し、自分の王国を取り戻すことを。

足場を固める
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君主が第一になすべき事は自らの婚姻である。
アルビニアは伴侶として遠縁のシラクサ伯ロジェ・ドートヴィルを選んだ。ロジェは虐殺をまぬがれた数少ないオートヴィルの男子である。もちろん、アルビニアはこの結婚によってオートヴィル家の領地を統合するつもりなのだ。
 
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 白枠で囲まれた領土がアルビニアとロジェの息子のものとなる

また姉メダニアをエピロス専制侯ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスのもとへ嫁がせた。ミカエル1世はラテン帝国やヴェネツィアとの戦いに助力を必要としていたので、アルビニアはその後たびたびオトラント海峡を越えて軍を送った。そのかわりミカエル1世はオートヴィル家による専制侯領の継承を認めた。

最後に妹コンスタンスを主君であるシチリア王フリードリヒと婚約させ、万が一の事態、すなわちホーエンシュタウフェン家によるオートヴィル家放逐の危機に備えた。

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主の1205年、春。
不発に終わった第4回十字軍のやり直しを教皇が命じ、諸国の兵が続々とパレスティナに渡っていった頃、アルビニアは元気な初子を産んだ。初子は父にちなんで小ロジェと名付けられた。

オートヴィル家の将来を担う男子の誕生にアルビニアとロジェは手に手をとって喜びあった。

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主の1209年、7月。
アルビニアは隣国の独立伯領カタンツァロに軍を送った。
戦は2年続いたが、夫ロジェの援軍3000のおかげでカタンツァロは落ちた。アルビニアの直轄領は3つとなった。

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同じ頃パレスティナでは、再編成された第4回十字軍がイェルサレムの奪還に成功し、教皇インノケンティウス3世の勢威はいやが上にも高まった。
 
しかしアルビニアには十字軍に参加するような余裕はなかった。
彼女の目はイタリアに向けられていたのである。

挑戦の開始

主の1219年、秋。
妹コンスタンスがフリードリヒ王のもとへ輿入れして8年が経っていた。アルビニアがナポリのカプアーノ宮に呼ばれた時、その小さな事件は起きた。

「レッチェは何か望みがあるか。申してみよ」

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アルビニアは若いフリードリヒ王を目の前にして黙っていたが、しばらくしてこう言った。

「オートヴィルの伝統ある称号、アプリアおよびカラブリア公位ならば、そろそろ返していただいてもよいかと存じます。あれはよくあるように他人から奪ったものではなく、私たちオートヴィルが手ずから打ち立てた名誉ある国の名ですので」

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その言い方が気に障ったのか、王は激しく怒って席を立った。

アルビニアはなぜ王を怒らせるようなことを言ったのだろうか。
「教皇派の立場を明確にした」「感情の昂り」など歴史家の見解は一致していないが、このとき初めてアルビニアが「王権への挑戦を公式に宣言した」という見方が有力である。

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主の1222年、3月。
フリードリヒ王は28歳という若さで亡くなり、その長女クリームヒルト・フォン・ホーエンシュタウフェンがシチリア女王に即位した。クリームヒルトはまだ幼かったため、ドイツ騎士エンゲルブレヒトが摂政についた。

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同日、エンゲルブレヒトは王国の再編成を宣言。
女王の二人の妹をシチリア女公とカプア女伯にそれぞれ据え、みずからはアプリア公を名乗った。

オートヴィル伝統の公位がどこの馬の骨とも知れぬドイツ人のものに! しかもレッチェ女伯アルビニア・ドートヴィルは王の直臣だったのに、これからはこの騎士ふぜいの配下ということになってしまった。

この事件は誇り高いアルビニアの感情を大いに害したらしい。

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『このたび、ナポリにて宴を催す。諸侯はこぞって参加するように。摂政エンゲルブレヒト』
「否、否! ナポリへなど行くものか」

アルビニアはナポリでの大宴会の誘いに応じなかった。その代わりと言わんばかりに、エンゲルブレヒトが所有するバリ領への請求権を捏造し、これを力ずくで奪取した。

これは家臣同士の私的な戦いだ。誰にも文句は言わせない。女王ですらこの手の戦を止めることはできない。中世の華、『私戦』である。

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 1225年、バリ戦争に勝利し王の直臣に戻る
 エンゲルブレヒトは北アフリカにも領土があり、腹立たしいことにドイツ人のアプリア公家は存続している

「さすがノルマンの女は猛々しい。一族の敵には容赦なく噛みつく」と人々は噂した。

クリームヒルト女王はこの事態を憂い、さまざま手を尽くした。だがアルビニアの背後には教皇インノケンティウス3世がついていることもあり、オートヴィル家の横暴を止めることはできなかった。

そしてノルマンの軍勢は返す刀で北へ向かう。
狙われたのは防備の薄いセラーニ家のフォッジア独立伯領だ。ほとんど抵抗はなく、アルビニアはあっという間に5つ目の直轄領を領地に加えた。

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 1228年のオートヴィル家領地(白枠)
 依然ホーエンシュタウフェン家(ピンクの文字)が領土の過半を有しているが、オートヴィル家もかなり追いついてきた
 一方、エピロスを継いだ甥ジョスラン・ドートヴィルは隣国に領土を奪われてしまっている

天使の降り立つ地

アルビニアは1人の息子と4人の娘を産み育てた。
そして手すきの時にはよく領地を巡察した。

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新たに得たフォッジア領には聖地モンテガルガノがある。
 
北仏のモンサンミシェルと同じく大天使ミカエルが顕現する地と言われ、ここを目指してオートヴィル家の祖先はノルマンディーから巡礼にやってきたのだ。ノルマン人たちはそのままイタリアに居着き、そして傭兵として活躍を始めることになる。

ここがなければオートヴィル家の歴史は始まらなかった。
そして自分もここにはいなかった。
アルビニアは無数の祖先たちに想いを馳せ、石畳の上で祈り続けた。

巡礼から帰るとアルビニアはひどい風邪をひいた。
そして頭痛と寒気が治まらず、まだ40歳だというのに体の節々の痛みを訴えた。サレルノから来た医者は薬湯と湿布を処方したが、彼女の容態は日に日に重くなるばかりだった。

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そしてついに主の1230年1月、アルビニア・ドートヴィルは息を引き取った。

夫ロジェに子供たちのことを何度も頼み、アプリア公位とカラブリア公位を回復できなかったことを悔やみながら死んだ。レッチェ伯位は息子の小ロジェに引き継がれた。

囚われの身から国を起こし、3つの領地を勝ち取ったノルマンの王女。アルビニア・ドートヴィルの亡骸は今もモンテガルガノに葬られている。


次回、二代目『ロジェ3世ドートヴィル』